孔に気づく、輪郭線が滲む、中庸
昨日自著を読み返してみてどの辺りに今自らの創作において気になることがあるのかを考えてみた。
一つは主体性をどうやって相対化できるのかという辺りが気になった。岡真里が言う疵のようなもの。他者が自らを領有するような状況。自作でいうと。様々な「孔」が目に飛び込んでくること。そして孔の向こう側が予想外、想定外な状態であること。そんな状況に満たされることが可能か?
二つ目は様々なものの輪郭線を消すこと。昨日も書をみながら輪郭線が気になった。書の場合輪郭線はかなり偶然に委ねているようにも見える。紙と墨の滲みである。建築も空気に滲んでいけばとても良いと思うのだがそうもいかないところが建築である。
三つ目は建築の条件全体に通ずるテーマである中庸である。様々な設計の決め方が過激な中庸であってほしいと思う。そのいい味では1階のレベルがGLプラス1.4メートルという半端な数字はとてもいいと思う。目線少し下である。
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