ドバイで考える
ドバイでレイオーバーしている。南米に行く時に発生するこの時間は辛いと思っていたが、ものを考えるには最高の時間かもしれない。哲学的にゆったりと思考できる貴重な時間を残りの人生を考えることに注いでみたい。僕はいま58で後どのくらい生きるか分からないが親父の生命力を見ていると90くらいまで生きる可能性がある。となると大学を65で辞めてからまだ25年も残存期間があるわけである。そうなると大学にいる残り7年間は次の人生の準備期間として大変貴重であることに気づく。
僕はこの時間を使って今まで積み上げてきたものを「成熟」させ多くを学生に培ったものを伝え自らを向上させようと思っていたのだが、その考えにおける自らの「成熟」という考えを捨てることに決めた。捨てるといってもいままで培った知識と知恵を全て放棄するということではない。もとより脳の記憶媒体にこびりついた60年近い学習の残滓をクリアすることなどできない。だからここでやろうとしていることはそうした記憶をもとにいままで積み上げ構成し、つなぎ合わせてきたスパッゲティのような思考の回路を一度綺麗に掃除するということである。なぜそんな気になったのかというと「別の登山ルートを登ってきたら違う風景も見えただろう」なんて考えているからではない。そんなことは当たり前だし、それは人生を全取っ替えするようなものでナンセンスである。そうではなくて、人生も定年を迎えるような人たちの間でよく呟かれるような「人生のあるいは人間の成熟」というような言葉にまったくリアリティを感じないからである。というのも成熟と停滞は紙一重であり、僕には残念ながら成熟と呼ばれる様々な事象や事項の多くが停滞にしか見えないのである。本当に成熟している人は止まっていない。それは熟しているのではなく生成している。ことが濃密になっているのではなく新たに生まれ変わっているのだと思う。私が尊敬する建築家も書道家もそうである。逆に言うと成熟という言葉の本当の意味はそういうことも含んでいるのかもしれない。そういう意味で成熟というのであればそれはそれでいいのだが。
そのために行うことはいままで当たり前に行ってきた考え方の習慣を変えることである。これは結構大変なことだと思う。というのもそれは何かを判断するのに時間を要するからである。いままでほぼ自動的に行われていた思考プログラムを逐一作り変えるからである。果たしてそんなことに意味はあるのか?この忙しい毎日のなかできるのか?とも思うかもしれないが僕はそうしないと人はおそらく止まるのだと思う。老害と言われる人々の多くが負っている病の原因はそこにある。この無駄に見えるオーバーホールを1年くらいやるとだいぶ回路が入れ替わるのだろうと思っている。というわけでこれから1年くらいは優柔不断でのろまの私がいるだろうがお許しいただきたい。
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