能率の共同体
時差ぼけが治ったと思ったら夜中目が覚めてしまったので仕方なく読書。新倉貴仁『「能率」の共同体ー近代日本のミドルクラスとナショナリズム』岩波書店2017を読む。難解な書き方なので正確に理解できているか自信がないのだが、あのヴェネディクト・アンダーソンによる『想像の共同体』に対して日本近代の共同体の紐帯を「想像」以上に「能率」に見出したというわけである。建築などをやっていると近代建築の効率性を云々するのは定番なのでそれが社会の結束バンドになっているのは言ってみれば当然だろうなという気もする。しかし面白い視点は多くある。そもそも近代日本が急激に増加する人口を処理するためにそれらをマスとして効率的に把握する必然性が政治にも経済にもあったこと。つまり20世紀の単なる科学信仰が能率を重視したわけではないということ。またそこで建築における機械信仰は社会、文化にかなり浸透していたようであるということ。さらにいわゆる三種の神器である冷蔵庫、洗濯機、掃除機、は生活の能率を上げる道具でありそれを大衆とよばれるマスがこぞって購入したのはまさに社会が能率で構成される様と言えるだろう。また明治啓蒙思想への反動として文化を重んじる(能率の拘泥しない)教養が生まれ、文学、哲学が重視されるがそれもつかの間の出来事だったということ。この束の間の教養は戦後細々と生きながらえたが見事に大学からも20世紀末に消え去った。能率の共同体は21世紀に入っても健在ということである。
You must be logged in to post a comment.