研究室の劣化
篠原研究室同期の桑原が逝去して別れを告げに行ってきた。人生の儚さにがっかりするとともに生きていてなんぼだなと思う。
明日から授業であり、研究室の指導も始まる。後期は卒業、修了を射程に入れるので毎年遅々として進まぬ学生の進捗にこの時期暗い気持ちになる。しかし生きていてなんぼだなという価値観が頭をもたげて来ると、まっいいか、好きに生きていけばいいじゃないか、「生きている」んだからという気もちにもなる。
どいつもこいつも設計者にする必要はない。そう思えば気が楽である。設計者にしようと思うから憂鬱なんであって、なんでもいいから卒業させればいいじゃないかと思えばまあ要点だけ押さえておけばいいということになる。
しかしそんなことなら大学にいて教育なんてしている意味があるのか?という気にもなる。教育の醍醐味は上手に水を与えて大きな花を咲かせるところにある。いくら肥やしをやって水をくべてもかろうじて花が開くも実も実らないということだと充足感は0である。
先日研究室に来たOBが研究室の質が下がっていると言っていたそうだが当たらずとも遠からずである。その一番の原因はとても簡単なことだが、学生たちが建築に使う時間が少ないからだと思う。なぜゼミに出すレジメが毎回ほとんど同じなのか?なぜ設計課題のスケッチが更新しないのか?彼らはゼミに出ると勉強した気になるのである。それまで何もしないのである。たまにまとまった新しいことを発表してもその次は全然続かない。たまたまなのである。単なる思いつきなのである。設計も同じである継続性がないのでたまに面白い案がポット出てもそれが展開しない。
それでも別に「ただ」の一級建築士になるのならなれるような気もする。それで満足ならそれで生きていけばいい(それなら別に僕と一緒に世界のワークショップ行く必要もなければ、無理して学会行かなくてもいいし、読みたくもない本を読まなくてもいいのであるが、、、)。しかし建築家として生きていくならそれ相応の覚悟を持って欲しい。起きている間は飯を食うときも建築のことを考えていて欲しい。そういう人が少ないと嘆きたくなって愚痴を連発しているが、考えてみればそんな学生は年に一人もいれば多い方なのだからまあこれでもいいのかなあと自分を慰めよう。
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