自立とフォルマリズム
ロシアフォルマリズムは文学の運動でありそこでは「何が」書かれているかではなく、「いかに」書かれているかが、まず問題であった。それは言い換えれば内容ではなく形式が重視されたということである。一方造形美術におけるフォルマリズムとは色や素材といった質料にではなく形式にこそ美が宿るという考えでカントに端を発する。
建築においてこうした考えはモダニズムの基本にあるというのが一般的な見解ではあるが、果たして日本の近代建築においてフォルマリズムを跡付けることは可能なのだろうか?仮に可能であると仮定して、まずフォルムは建築のどの部位によって表現されたのかと考えてみる。そしてそれを構造(Structure)と表層(Outer)に分けてみる。さらにその形式(形)が何よって決定されたのかそれを科学的理性(Reason)と芸術的感性(Sensibility)としてみよう。そして便宜的に仕上げを空間と読み変えると日本のフォルマリズム建築は4つに分類できる。 1)構造理性主義(S-R)、2)構造感性主義(S-S)、3)表層理性主義(O-R)、4)表層感性主義(O-S)。これを使って日本のフォルマリスト建築家を分類するなら、前川、丹下は構造理性主義、後藤、森田、篠原は構造感性主義、林昌二は表層理性主義、磯崎新、伊東豊雄は表層感性主義ということになろうか?
整理するとこうなる近代美学が近代建築の下敷きでありそこには建築の自立性がうたわれた。建築の自立というのは建築固有の要素で建築を作ることを指すのだが、そこで建築固有の要素とはカントが判断力批判で記すところの質料に対して優位にある形式のことと考えていいと思う。形式こそが建築固有のしかも支配的な構成要素なのである。つまり建築の自立とは建築が形式を支配的に使いながら生成されるという状態を言うのである。そして近代建築は概ねそれを主軸に進められた。コンクリート、鉄を駆使した形の革命だったと言っていいであろう。その状態を近代建築の「フォルマリズム」とここでは呼ぶことにする。よって戦後ある時期までの建築はほぼこの「フォルマリズム」にはいるのである。
モダニズムが瓦解しポストモダニズムという時代に入り、あるいは篠原一男に対して、坂本、伊東らの主張するところの空間から場というテーゼが出回るころからこの「フォルマリズム」も瓦解するとみていいだろう。
そこでこの「フォルマリズム」が瓦解する手前までをフォルマリズムの視点から分析、分類してみると上記のような4分類が可能であろうと思うわけである。
そこで篠原一男を分析をこの日本近代建築史のなかでこの構造感性主義の系譜に位置付けるとおそらくその最終地点におりその嚆矢を後藤、森谷みることができると思われる。その途中に誰がいるのかその系譜をさぐるのがこれからの作業である。
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