槇文彦の一貫性
槇文彦の3つのエッセイ集を並べてみる。近刊の『残像のモダニズム』をやっと読み終え、その昔読んだ残りの2冊の目次を見ながら中身を思い出す。そして思うのは主張の一貫性である。92年に出版された『記憶の形象』は1966年の「環境革命と機能主義」から1991年に書かれた「モダニズムとの出会い」そして書き下ろした「スケッチ・イメージ・未完の形象」までの42編が掲載されている。2013年に出版された『漂うモダニズム』は1996年の「静けさと豊かさ谷口吉生の建築」から2012年「言葉・風景・集い−−−日本の都市・建築近代化の中で現れた特製」そして書き下ろした「漂うモダニズム」「日本の都市とターミナル文化」など49編が掲載されている。最後の『残像のモダニズム』は今年(2017年)に出版された。掲載されている論考は1998年の「インタビュールシオ・コスタ—ブラジリア 時が育んだ都市の「根」」から2016年の「座談会「宴」のあと」そして書き下ろしの「変貌する建築家の生態」「空間・時間・建築」「つくり、書いてきた半世紀をふりかえって」25編である。この三冊の論考が槇文彦が書いてきたものの全てではないとしても、そのかなりの重要な部分が網羅されていると思う。そしてもちろん自らが選んだエッセイであるから各時代の槇文彦が現れているのだと思う。そういう視点で眺めてみると実に一貫している2つの点があることに気づく。その一つ目は、建築は「書くことと作ることの並走」であり、二つ目は、建築は「時間と記憶の蓄積である」という認識である。またこれら100編以上の論考は繰り返し同じ建築家、同じ自作に言及もしておりそのぶれない主張には目をみはる。
時間の話で言えばヒルサイドで槇はフェーズごとに差異を与え時間差を刻印した。その昔横浜アーバンデザインコンペで佳作をとったとき審査委員長の槇は海の上に突き出た都市の文脈を一見破壊しそうな過激な案を最優秀作としてこう言った。「建築は常にモデルネを刻印するものであるべきだ」と。忘れない一言である。そしてこの槇のコメントは50年間一貫しているわけである。
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