遠方性をつくる
映画もテレビも写真も電話も近代に発明されたこれらメデイアはこの場所に無い遠方の何かを近くに引き寄せるものである。そしてこの近くに引き寄せられた像や音に没入すればするだけ、ここにいる自分は「ここ」との関係を希薄化する。つまりここにいる自分は「」に入れられる。さて映画、テレビ、写真、電話を一括りとしたのだが、これらのメディアには大きな差異があって映画と写真はすでに人が表象化したものが近寄ってきている。これに対して電話は生の対象が現前化するのである。テレビはというとここではドラマのようにすでに表象化したものとライブ映像のように生が現前化するものとに別れるわけである。ここで表象化したものが近寄る場合に自分が「」にはいるとするならば、生の現前化したものが近寄る場合に自分は『』に入ると言えるであろう。より自分とこことの関係が希薄になると言える。ここまでは和田伸一郎の『存在論的メディア論』の焼き直しである。
さてこうしたメディアの実存的な視点からの分類を建築に当てはめて考えた末に僕のフレームとしての建築の理路はある。つまり建築という固定的な物体はそれを数回経験するうちに表象化された情報として脳内に蓄積されてしまうだろうという仮説でがその理路の骨子にある。もちろん建築の持つ表現としての強度が毎回その表象を破壊し再構築させる可能性は否定しないのだがそれには様々な要素が必要であり、多くの建築はその可能性に乏しい。一方で建築の建築外的要素、特にその開口部の外側に現れる人、自然、移動する人工物などは表象化されておらず、生の現前として自分に迫るのである。そしてここで重要なのはこの厳然化するものの距離である。メディアを通して何かが近寄る時に自分が引くのはその距離があるからである。この距離感を生み出しているのがメディアの技術なのである。しかるに開口部から飛び込んでくる何者かはその距離感を感じさにくい。建築には残念があらこの距離をつくる技術を持ち合わせていないからである。そこで重要になるのはこの開口部(建築)が対象(建築外的存在)をどれだけ遠くに感じさせられるのかという精神的な距離を生み出す関係性のデザインなのである。その遠方性がフレームデザインのポイントである。いつもそういうことを気にしながらフレームを作ろうと思っている。
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