床の間の遠方性
メディア論を現象学的に語る和田伸一郎の解釈を読み続けていて面白い次なる解釈に出会う。それは物を見たり聞いたりする時はその物の置かれている、あるいはその音が流れているコンテクストがあってそのコンテクストの上でそれを理解する。図と地の概念を使えばそのものが置かれた、発せられた場という地の上で図である音や像が解釈される。しかし電話やモニターから流れ出る音や像はそれらが発せられたコンテクストをほぼ失いかけている。かといってそれらがこちらにやってきて私がいるこの場所のコンテクストに乗ることもできない宙ぶらりんの状態にある。これらの図はどちらの地にも乗れないのである。そこで和田の解釈はこうである。これらの音や像は私の上に乗る。つまりこれらの像の地は私自身だというわけである。私をコンテクストとして再生するのである。
なるほどとお思う。こちらに飛び込む図はすでにコンテクストというそれを理解する補助手段を失い、私の私としての解釈しかありえないということである。少し話を建築的にするなら、建築の持つフレームから飛び込んでくる図は私という地の上で展開するしかない。そして昨日言ったようにそうした図の距離感が重要でなるべく遠方つまりこことは全く異なるコンテクストであるという精神的遠方性を決めるのは私自身ということである。それは私の中で展開し、私の中でその遠方性は判断されるということである。もちろんそれはだから十人十色ということではなく、人としてのある普遍性もあるのだと思う。
そんな意味で僕は例えば床の間というものにとても興味がある。現状ではこの場所はある余剰空間としてフレームのような物理的な骨格を持つ。そしてそこに一輪の花なり、書なり、が置かれる。こうしたものは脱コンテクスト性をもっているのだがそれをこちらが解釈するというのは今まで通りの話である。そうではなくこの床の間に次の間あるいは外につながる穴があったりする可能性を感じるのである。あるいは床の間の天井が吹き抜けになっていたりと、、、、いろいろとこの場所を起点に別のところにある図が放り込まれる可能性がありそれを包む建築的フレームがすでにここにあるということが可能性である。
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