運動と風景と持続
SDレビューに出した「運動と風景」の話を編集者の飯尾さんにしたところすかさず「ベルクソンですね」と言われてからベルクソンの主要な概念である純粋持続について考えている。そして中村昇『ベルクソン=時間と空間の哲学』講談社選書メチエ2014を参考書として少し勉強もした。
ベルクソンは人は自分を「持続」として認識するという。ある瞬間で固定された自分はいないのでこの謂は直感的には容易に理解できる。そしてその時持続は時間を誘発する。普通人は生活の中で一箇所にいて動かないことは少なくなにがしか移動している。移動しながら自分の場所の変化を視覚的に認識することで時間を結果的に意識する。東京から宮ノ下まで移動する時3時間かかったがこの時間も移動の視覚的認識がそれを支えている。しかるに宮ノ下で空の雲をぼーっと見ていると時間の経過がわからなくなってしまった。つまり人は持続を意識するための時間を意識する場合移動(運動)がそれを誘発する都言えるのだろうと思った。「運動と風景」が人が自らを意識する上でかなり重要なテーマであると理解するためにはベルクソンのこうした哲学が補助線を引いてくれることがなんとなく理解されてきたのはやっと飯尾さんに指摘されてから半年たってからである。哲学の理解とはこんなことなのだろうなあと思う。
さてそうなると「運動しない、風景もない」つまり「静止と単視界」というようなテーマが建築にはあるのだろうと思うに至った。もちろんそれは人間の存在にとってどういう意味があるのか分からないのだが、、、
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