純粋持続
山崎正和『リズムの哲学ノート』中央公論新社2018の晦渋な文章を追いながら一つ理解が深まったと思う章があった。それはベルグソンについての考察である。ベルクソンの純粋持続はベルグソン自身の著作も解説書もどれもよくわからなかったのだが、本書の批判的解読は理解の糸口を見せてくれた。
人間は本能的に外界を視覚的に、聴覚的に、臭覚的に、触覚的に分節するものだと思う。あるいはそう訓練されているのだと思う。和音がなったらドミソと分解するように学校で習ったし、建築見ても柱と柱頭とコーニスとペデイメントを分けようとする。しかるに純粋持続とはそうした分節を排除して知覚に直接的に訪れる直感であり、切れ目ないパイプオルガンの永遠に鳴り響く和音を感じ取るようなものだという。しかしそういう知覚はベルグソンが嫌う量的変化はもとより質的変化も原理的に感じ取れないことから原理的に矛盾しているというのが山崎の意見である。さて矛盾しているかどうかはおいておいて、はたして我々は純粋持続的な知覚を得ることができるのかそしてその知覚は人間を豊かにするのかというのが次の問いであり、たとえば建築の創作において純粋持続を感じ取れる場なりものなり空間があるのだろうか?それはつまり分節のを感じさせないモノである。それはいわゆるリズム感のあるものではなく一拍が10分くらいの音楽のようなものなのであろう。なんかとてつもなくノペーッとしたものである。
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