知識を測るので何が悪い
暗記詰め込み教育では育まれない新たは能力を確認するための受験制度ができるというがそこで求められる新たな能力なんてずっと昔から必要とされていることでちっとも新しくない。というのが著者の意見(中村高康『暴走する能力主義ー教育と現代社会の病理』ちくま新書2018)。僕は暗記つめこみ教育さえなされていない学生にそれ以外を求めるなんてありえないと思っている。受験勉強賛成だし、推薦AO入試はできることなら避けて通りたいと思っている。自分の娘にも受験を勧めたしおそらく本人も受験したことをポジティブに考えていると思う。
しかし、、、この本でも書いてあるが人間の能力を測る道具はないに等しいのだがそれがないとその人間の居場所が決まらないので暫定的に作られているのが試験という制度だという。しかし試験では正解があることしか問えないし世の中がグローバルになればなるほど世界中で正しい抽象的なことしか問えなくなりつつある。しかしそういう知識がある個別的な具体的な社会条件で有用であるかどうかは不明である。よって試験で与えられる貨幣のような学歴とう文化貨幣が現代社会ではかつてほど力を持たなくなってきているのも当然であろう。
しかしそれでもなお試験が必要なら(ないほうがいいと思うが)、、ちょっと極論だが純粋に知識量を測ればそれでいい気がする。知識以外の様々なその都度その都度社会構築的に変化する何かを求めて国が右往左往し多大な予算を使って制度変更するくらいなら、、、シンプルに知識を測ればいい。知識がある人の方がない人よりはるかにクリエィティブな力を発揮できると僕は考えているから。
You must be logged in to post a comment.