自律と他律を止揚すると
藤村ゼミでは自律かつ他律が話題になり、昨日の古澤邸研究会で古澤さんは自律と他律が止揚して生まれる自律を作りたいと言っていた。さてそれは可能か?止揚したらそれは高次の概念になるのではなかろうか?
僕に内面化された言葉「流れと淀み」で言えば「流れ」は他律的で「淀み」は流れに一石投じることで生まれるから自律的な操作で生まれる現象である。またその概念がある具体的条件に落としこまれた時生まれた「運動と風景」というコンセプトでは「運動」する主体は自邸では私であり配偶者、子供の家では子供だから他律的な要素である一方「風景」は建築の中に距離を作る操作だからこれは建築的自律的操作である。さて「流れと淀み」「運動と風景」は止揚するとどうなるのだろうか?恐らくそれは概念的に言えば流動体としての全体性であり具体的に自邸に即して言えば「家」あるいは「ドメスティシティ」なのだろう。それはもはや自律他律を超えたもののような気がする。
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