二つのサイズの共存
19世紀アメリカでは住宅は家族を包む器だったが20世紀住宅は「建築」となり家族は消えた。このことが2015年の東南大学でのシンポジウムのテーマだった。日本でも多木浩二の『生きられた家』では建築家の作る「建築」としての住宅が人によって作られた家と比較された。この時多木の念頭にあったのは篠原一男の住宅である。非日常を標榜すれ篠原住宅には人は登場しない。故に空間のサイズも人と関係しない。住宅は広ければ広い方が高ければ高い方がいいのである。しかし篠原は高い天井ばかり作っていたわけではない。唐傘の家に篠原研の先輩たちと伺ったとき先輩たちは異口同音に入れこの低い天井の空間に注目していた。身体サイズの空間が丁寧に設計されているのを再認識したのである。篠原が家族を念頭に身体サイズを作っていたとは考えにくいが、このフォルマリスティックな大きなサイズ(から傘)と身体的な小さなサイズの共存に共感する。図らずも自邸にそうした二つのサイズの共存を意図したのはこんな篠原を横目で見ていたからかもしれない(写真は2015年に撮ったもの)
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