理論としての建築家の自邸
長谷川逸子さんと門脇耕三さんプロデュースの「理論としての建築家の自邸」という催し物があり自邸に50人近い方が訪れ見学をしてから長谷川さんのギャラリーで議論した。クリティークの吉村さん、古澤さん、能作さん、常山さ、山道さん、連さんが熱く拙宅を語ってくれた。実りある議論であった。
その昔槇文彦さんが新建築で代官山の確か第3期を発表した時に磯崎さんが槇文彦論を寄稿した。槇さんはその号の自作の解説の最初に「磯崎さんが槇論を書いてくれているらしいが、磯崎さんのことだから槇論と称して磯崎論をかいているのだろう」と書いていた。おそらく批評とはそういうものでクリティークの皆さんは坂牛論と称して自分論を展開するのだろうと思っていたがやはりそれはそういうことだった。それに不満かと言うとそうではなくてそれは想定内のことでかれらの彼等論聞きたいが故に彼らにクリティークをお願いしたのである。
分かっているのなら何も頼まなくてもいいのではないのかと問い詰められるとやはり完全に想定内ということでもなかった。運動と風景という問題意識の根源は何か、運動と風景はコンセプトではない、批評を排除している、内部と外部の反転性、ねっとりまとわりつく身体性、人生が現れている、認知できないものが作られている、などは重要な指摘である。それに対する答えはすぐにはでないので時間をかけて考えてみたい。
多くのクリティークの方に来ていただいたが故にステレオタイプな言葉に回収されなかったことが収穫である。本当に感謝である。
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