風景としての住宅
マクルーハンの「身体拡張」によれば衣服も住宅も「メディア」である。そう言ってしまうとその同質性ばかりが際立つが、やっぱり衣服と住宅は違う。大きさが違う。衣服の持つ身体性と住宅のそれを同じ水準で語るのには無理がある。その理由はやはり大きさに差があるからだろう。衣服はほとんどの場合これは身体の一部になっているけれど住宅はかなりの時間身体から切り離れているし、ふと見る対象として(風景として)浮かび上がる。『ファッションの哲学』を地下のソファーで寝転がって読んでいたら住宅が身体から切り離れた。
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