情動の社会学
『情動の社会学ーポストメディア時代におけるミクロ知覚の探求』伊藤守、青土社、2017。最近本屋で情動とついた本があると即買う。帯にあるように「私たちはなぜ感情に支配されてしまうのか」の原理、情動が20年くらい前から議論され始めたルーツ、この問題を哲学的にどのように理論化されているのか、を知りたいからである。後ろからいくとそれはどうもホワイトヘッドのprehensionという概念に行き着くがこれがなかなか難しい。直感的なものの把握ということなのだがどうもそれ以上は理解が困難。真ん中の問いの答えとしては1995年に刊行されたマッスミのAutonomy of Affectが挙げられている。さてそれではさいしょの問いには二つの理由があり、一つは反主知主義、もうひとつはデジタルテクノロジーによる感覚制御のようである。
JIAマガジン3月号
JIAマガジン3月号昨日校了。今月号の表紙は比嘉武彦さんの建築が生まれる時である。比嘉さんは開館6年間で1000万人の来場者を記録した学会賞受賞作武蔵野プレースの設計者である。そんな比嘉さんが茨城県の筑波山を臨む地に作る学園で考えたことが形になる瞬間である。廊下が生徒と自然をつなぐ場所と考えその空間を考えていた時にバッハの音に誘われたという。音楽好きの比嘉さんだからこその天啓だったのだろう。
今月号は話題が豊富で昨年のアルカジア大会での基調講演を行ったBIG事務所のカイ‐ウェ・ベルグマンさんのユニークな公演の要約とアルカジア建築賞2018最優秀賞受賞者ジュン・セキノ氏へのインタビューを掲載した。ベルグマンさんはBIGのプロジェクトを15㎡から1億㎡まで16個のプロジェクトを説明し最後は宇宙建築の可能性を示唆する内容でその建築の幅の広さに聴衆は魅了された。
年か前にブエノスアイレスでレクチャーをご一緒したのがBIGのベルグマンさんだったと思う。僕は自分の準備であまり聞けなかったが聞いた学生によるとめちゃ面白かったそうだ。この事務所はプレゼンの天才である。
世界大学ランキング
先日結構有名なイギリスの世界大学ランキングの組織からメールが来た。そのランキングの評価基準は40%が学界での評判となっていて一体どんな人がその評価をしているのかと思っていたらこういう風に評価の依頼が来るのかということを知った。それで昨日その評価アンケートが送られてきて10分かからないからすぐやて下さいと書いてある。自分の所属、専門分野をいれてから聞かれたことは呆れた。日本国内でその分野で優秀な大学を10まで挙げよ、世界で20まで挙げよである。へえ、こんな質問の集計がこの有名なランキングの40%の評価を占めているのか、そう思うと責任を感じる一方、おなかがすいて朦朧としているときに、どこまで明晰な答えをだせているのやら疑問を感じた。さらにこのアプリが恐ろしく性能が悪くて大学名を入れるとその正式名がでてきてそれを選ぶのだけれどその正式名が出てくるのに30秒くらいかかるのである。be patientって書いてあるけれど無理だね。
コミュニタリアニズム的
吹き荒れる資本主義に物申すためにコミュニタリアニズムが登場したので昨日の言い方はやや誤解を招きそうなので言い直しておこう。さてこの本でコミュ二タリアニズムを復習すると次のことが分かる。政治も経済も乱暴にくくれば私的所有の度合いでそのメカニズムは概ね決まる。つまり政治経済は資本主義と共産主義の間を揺れ動いているということである。その昔資本主義が現れ調子が悪くなるって私的所有を制限する空想社会主義が、マルクスが現れ、一方功利主義に対して私的所有を最大限にするリバタリアニズムが現れ、それを競争で獲得せよというネオリベラリズムが現れ、行き過ぎだから少し共同性を加味せよと中道左派としてのコミュニタリアニズムが現れたということである。その流れに文句を言うつもりはない。僕もある程度コミュニタリアンである。問題はそういう下部構造の上に乗っかった建築はそのリトマス試験紙の如く左へ右へと揺れ動き資本主義の調子がいいと私的、個人的、自閉的、右派的に振れ、調子が悪いと共同的、コミュニティ的、開放的、左派的となる。そのあまりに軽々しい根無し草的な建築のあり方に坂本先生は警鐘を鳴らしたいのである。曰く「行き過ぎた社会性」は建築性を失うと。
Ray Ban Törn off
Oh my!!! my glasses Ray Ban was torn off when I wiped them.
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