定年後
楠木新『定年後ー50歳からの行き方、終わり方』中公新書2017を読みながら世の中一般の定年後と僕自身のいつか来る定年後はだいぶ違うだろうなあと感じた。おそらく大学定年後も引き続き設計の仕事をしているところがまず違う。なので社会とつながり、居場所を確保せよという本書の教えに対しては答えが見つかっている。また定年後の最大の悩みは孤独と書いてあるが個人的なことで言えばやっと社会と縁が切れるのか(切れるわけもないが)と思うとせいせいしている。そうはいっても人里離れた山の中で孤独を楽しみたいなどと思っているわけではなく、友人と酒飲んで騒ぐのも大好きだが好き好んで⚪︎⚪︎サークル的な会合にでかけたりとか、不要な委員会などのメンバーであり続けるなどいうことは考えたくもない。そして世の人々もやっと孤独に人生を考えることができる時間が持てるのであろうから無理して社会と繋がるなんて必要もないだろうアドバイスしたくなる。しかしそうは思うもののOECD諸国の統計を見ると友人仲間と時間を共有しない人間の比率はダントツ日本が一番高い。この統計には少々驚く。これが孤独死の基盤にもなっているのだろう。ということは老後に焦って人付き合いしましょうというのではなく、そもそも社会人となって働いている現役の時から人付き合いできる心とお金と時間の余裕があるような国を作らねばいけないということなのである。定年後にあせって急に初めてもうまくいくはずもない。
論文と作品
昨日博士の学生の黄表紙投稿の採用通知が来た。構想を練り週2回のゼミを行いここに至るまで約1年かかった。そしてこれは連続ものの論文なので第二稿は年度内に出しうまくいけば夏までには掲載されるだろう。つまり1年半で2稿が完成する。査読が比較的厳しい意匠系の論文でも真面目にやればこのくらいのペースで仕上げることはできるだろう。一方建築作品はというと仕事が始まり敷地調査などして担当者と当初は毎日、設計段階で週3回、現場に入れば週2回くらいは打ち合わせをして竣工するまで小さな住宅でも1年半は少なくともかかる。これが作品選集に掲載されるクラスになるとさらにワーク量は多くなる。こうして論文と作品を比較するとワーク量は作品の方が必ず多く、また抽象化された理論では得られない建築の本質、構築やヒューレは作ることでしか獲得できない。それゆえ黄表紙論文と作品選集を同等に扱うことは当然あるいはそれ以上と考えるべきだろう。そこで作品選集のあり方も少し変えてそこにコンセプトと作成までの筋道をもう少し理論化して作品論として位置づけ黄表紙論文と同等に扱うべきである。その意味で現在のJARのデザインレビューはよくできていてこれを日本語でもやればいいのである。あるいはこれからは作品選集はやめて全部英語でこうした説明を加えて投稿し審査する形式にするのでもいいだろう。いずれにしてももっと作ることの位置づけを高くしていかないと昨日加藤先生と話した構築とヒューレの建築論は進展しない。
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