コレクターのモーチベーション分析
理科大が隔月発行している科学教養雑誌『科学フォーラム』は教員には無料で配られる。いつもべらぺらめくって積ん読だが今月号には「アート・マーケティングーコレクターのモーチベーションを分析するー」という研究成果が掲載されていて驚いた。理科大の他の先生の研究で僕の興味と重なるものを始めて目にしたから。今度お話しを聞いてみたい。

理科大が隔月発行している科学教養雑誌『科学フォーラム』は教員には無料で配られる。いつもべらぺらめくって積ん読だが今月号には「アート・マーケティングーコレクターのモーチベーションを分析するー」という研究成果が掲載されていて驚いた。理科大の他の先生の研究で僕の興味と重なるものを始めて目にしたから。今度お話しを聞いてみたい。

ニューテクノロジーで建築を変える力を持つものはセンサー技術なのだろうか?外界を感知して適正温度に建物を保つために勝手に窓が開け締めされたりする。しかし建築はシンギュラリティを過ぎてもそれほど変わらないように思った。建築よりはるかに人間自体が変わりそうな気がする。本書でも書かれているが人間はその昔から義体によって補われて生きている。入れ歯、メガネ、義手、義足すべて義体のツールである。しかしこれからは義体ならぬ義脳が可能になるだろうと言われている。すでに翻訳マシンiliはamazonで買える。もうすぐヒアリングもスピーキングも不要な時代になるだろう。脳にチップを入れて人間自体をiot化すれば携帯持ち込み禁止なんてナンセンスな時代になるかもしれない。履歴書には裸眼ならぬ裸脳の成績を書く欄が出てくるかもしれない。

磯崎新が(確か)岸田日出刀に駆け出しのころの作品を見せたときに「作為」的と言われたとどこかに書いていたように記憶している。もちろん作為の反対は自然である。おそらく建築家はこの二つを極とするスケールのどこかに位置されるだろう。もちろん磯崎と共に篠原も作為の極北に位置する。その弟子たちの多くは作為的であり自分も比較的そっち側だと思っている。一方自然の建築家も多くいるが現在その極北にいるのが堀部さんである。序文の最後の言葉が印象的である。「知識ではなく、概念ではなく、建築を自分の気持ちで考えた言葉で綴りました」そして43作品を8つに分けてそれぞれに付した言葉が「本来の建築の役割を考える」「記憶の継承」「ずっと昔からあったかのように」「庭から生まれる建築多様性」「静けさと光」「『生と死』が共存する空間」「人と建築と場所のつながり」である。普通の人が普通に建築に臨む自然な言葉たちである。人の作品集をあまり見ないが自然の建築家の作品集は古典を読むような清々しさがある。

早稲田小劇場どらま館はが2015年再建された(竹中工務店)。歴史を紐解くと1966年に演出家の鈴木忠志が「新劇団自由舞台」を旗揚げしたのに始まる学生による新しい舞台作成の場である。ねじれたルーバーはヘルツォーグのシグナルボックスのようでもある。

山崎正和『リズムの哲学ノート』中央公論新社2018の晦渋な文章を追いながら一つ理解が深まったと思う章があった。それはベルグソンについての考察である。ベルクソンの純粋持続はベルグソン自身の著作も解説書もどれもよくわからなかったのだが、本書の批判的解読は理解の糸口を見せてくれた。
人間は本能的に外界を視覚的に、聴覚的に、臭覚的に、触覚的に分節するものだと思う。あるいはそう訓練されているのだと思う。和音がなったらドミソと分解するように学校で習ったし、建築見ても柱と柱頭とコーニスとペデイメントを分けようとする。しかるに純粋持続とはそうした分節を排除して知覚に直接的に訪れる直感であり、切れ目ないパイプオルガンの永遠に鳴り響く和音を感じ取るようなものだという。しかしそういう知覚はベルグソンが嫌う量的変化はもとより質的変化も原理的に感じ取れないことから原理的に矛盾しているというのが山崎の意見である。さて矛盾しているかどうかはおいておいて、はたして我々は純粋持続的な知覚を得ることができるのかそしてその知覚は人間を豊かにするのかというのが次の問いであり、たとえば建築の創作において純粋持続を感じ取れる場なりものなり空間があるのだろうか?それはつまり分節のを感じさせないモノである。それはいわゆるリズム感のあるものではなく一拍が10分くらいの音楽のようなものなのであろう。なんかとてつもなくノペーッとしたものである。
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