Yogaしたり本読んだり
椅子に座っているほど腰に悪いことはない、とアユールチェアのお店の人に言われ、ちょっと座っているのに疲れると、立ち上がったり、歩いたり、寝っ転がったりする。体勢が変わると風景も変わる。それが楽しい。
椅子に座っているほど腰に悪いことはない、とアユールチェアのお店の人に言われ、ちょっと座っているのに疲れると、立ち上がったり、歩いたり、寝っ転がったりする。体勢が変わると風景も変わる。それが楽しい。
レモン画翠が毎年行っている卒業設計展が今年は40回となりそれを記念したブックレットが作られ送られてきた。内容は40回記念のシンポジウムと、過去の出展者へのアンケートそして40回の節目節目の卒業設計ダイジェスト。シンポジウムはこの5月に行われた。司会は門脇耕三さん、登壇者は五十嵐太郎さん、古澤大輔さん、中川エリカさん、西牧厚子さん,私である。ちょうど40回の歴史を語れるような人選である。当時のレンモン展、卒業設計の位置付け、卒業設計の生かされ方、将来を決めた分岐点はいつか、などなど質問に答えながら時代を語った。聴きながら当たり前だが時代は移り変わるということを痛感した。また質問のアンケートでは同様の質問がなされた。アンケートの回答とは別に出展者の所属を調べてみるとちょっと面白い結果が出ていた。今から10年くらい前までは出展者の職種はアトリエ事務所だったのが、10年前に逆転して今は組織事務所で働く人の方が多いのである。安定志向なのか、仕事がなくなったのか?面白い傾向である。また過去の卒業設計ダイジェストに山梨の作品が載っていた。山梨とこれだけ付き合っていても卒業設計の話などしたことがなかったので彼が当時からグリーン建築を作っていたのを知って驚いた。彼は根っから日建に向いていたんだ。



真木悠介、大澤真幸 現代社会の存立構造/『現代社会の存立構造』朝日出版2014を読む。マルクスの読解本であるのだが、その深い部分は大澤の解説が懇切丁寧でとてもわかりやすい。でもこの本が建築的示唆を与えるのはその部分よりもっと基礎的な社会の認識が建築と重なる部分である。それは社会というものが「それがまさしく、切株や川の流れや台風等々と同様に対照的=客観的な、つまり物的な事象として存在するということ」と同時に社会現象が「自分たち人間じしんの行為の連関以外の何ものでもない」つまり社会は自分自身なのである。ということは社会は対象的であると同時に我々との連関の上にあるという二律背反の状態にあるという認識である。実は建築も切株のようなものであると同時に自分たちじしんの行為の連関以外の何ものでもないのである。そして設計者の力点の推移がまさに建築を前世紀から今世紀にかけて移動させてきた力なのだと思う。また逆に言うと建築の存立構造の基本にこの二つの視点があるし、建築家が考えなければいけないことでもある。
私の先輩の社会学の教授が大学の授業で講義の内容はすべて授業ホームーページにアップして学生はそれを予習してきてこの内容を授業時間には批判的に論じよという方法をとったと言っていた。ここで学生はかなり挑戦的に間違いを指摘したり、資料の根拠を批判したりして先輩もあたふたしながらも、学生がポジティブに授業にコミットするメリットを語っていた。そこで私も今季から『建築の条件』授業において一章ずつ進むとして学生はすべてその章を読んできて、まず担当者がそれを15分で解説して、僕が10分補足し、その後60分をディスカッションすることにした。ディスカッションのテーマは私の主張の批判的読解である。そして2章進むごとに二つのテーマについて学生が独自の調査によって同じテーマを異なった視点から読解するというプレゼンをしてもらうことにした。また授業ごとに小さなレポートをウェッブ上に記してもらう。こうした多角的な授業は単に双方向的というステレオタイプな指導基準を実践するためではない。学生が自発的に思考することと、私の思考の欠陥と癖を是正するためでもある。さてどうなることか?しかし前も記した通り、自らの思考を解体することに残りの大学人生を使おうと思っているまずは最初の実験である。
篠原研究室同期の桑原が逝去して別れを告げに行ってきた。人生の儚さにがっかりするとともに生きていてなんぼだなと思う。
明日から授業であり、研究室の指導も始まる。後期は卒業、修了を射程に入れるので毎年遅々として進まぬ学生の進捗にこの時期暗い気持ちになる。しかし生きていてなんぼだなという価値観が頭をもたげて来ると、まっいいか、好きに生きていけばいいじゃないか、「生きている」んだからという気もちにもなる。
どいつもこいつも設計者にする必要はない。そう思えば気が楽である。設計者にしようと思うから憂鬱なんであって、なんでもいいから卒業させればいいじゃないかと思えばまあ要点だけ押さえておけばいいということになる。
しかしそんなことなら大学にいて教育なんてしている意味があるのか?という気にもなる。教育の醍醐味は上手に水を与えて大きな花を咲かせるところにある。いくら肥やしをやって水をくべてもかろうじて花が開くも実も実らないということだと充足感は0である。
先日研究室に来たOBが研究室の質が下がっていると言っていたそうだが当たらずとも遠からずである。その一番の原因はとても簡単なことだが、学生たちが建築に使う時間が少ないからだと思う。なぜゼミに出すレジメが毎回ほとんど同じなのか?なぜ設計課題のスケッチが更新しないのか?彼らはゼミに出ると勉強した気になるのである。それまで何もしないのである。たまにまとまった新しいことを発表してもその次は全然続かない。たまたまなのである。単なる思いつきなのである。設計も同じである継続性がないのでたまに面白い案がポット出てもそれが展開しない。
それでも別に「ただ」の一級建築士になるのならなれるような気もする。それで満足ならそれで生きていけばいい(それなら別に僕と一緒に世界のワークショップ行く必要もなければ、無理して学会行かなくてもいいし、読みたくもない本を読まなくてもいいのであるが、、、)。しかし建築家として生きていくならそれ相応の覚悟を持って欲しい。起きている間は飯を食うときも建築のことを考えていて欲しい。そういう人が少ないと嘆きたくなって愚痴を連発しているが、考えてみればそんな学生は年に一人もいれば多い方なのだからまあこれでもいいのかなあと自分を慰めよう。
下吉田にゲストハウスを作ろうというプロジェクトの打ち合わせでリトロボカフェへ。おっよく見ると拙著が並んでいる。ありがとうございます。このプロジェクトは貯金箱財団、滝口建築、日本女子大学宮晶子さんと共同作業。上手く進みそうです。
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