アラーキーはしご
配偶者は朝早く弓に出かけた。50射するらしい。弓道というのは的を射ればいいというものではなく入場から退場迄の動きが型通り出なくてはいけないそうである。およそ道と名のつくものは規範を真似、自己の内面に浸透させる修練である。
一方西洋伝来のアートは外部を自らの規範で読み変える技である。荒木の展覧会をハシゴ(写真美術館、オペラシティーのギャラリー)しながら荒木の外界を読み換える規範が見えて来た気がした。それは被写体を選択するが、選択したあとは見えるがままに切り取り 、不要な脚色や演出は施さないということである。
しかし一方で荒木に規範なんてあるんだろうか?という疑問も湧く。彼は目に入るものは可能な限り食い散らす恐竜のようでもある。かれの出版数は500を超えているのである。
さて建築に話しを引き寄せてみよう。建築においては多くの要望、法律、予算、工期などの条件を咀嚼して設計者それぞれが、彼/彼女の規範によってそれらを読み換える作業を設計と呼ぶのである。その意味でわれわれのやっていることは荒木のやっていることと原理的には同じである。少なくとも書道や弓道よりは類似した行為である。

時差ぼけが治ったと思ったら夜中目が覚めてしまったので仕方なく読書。新倉貴仁『「能率」の共同体ー近代日本のミドルクラスとナショナリズム』岩波書店2017を読む。難解な書き方なので正確に理解できているか自信がないのだが、あのヴェネディクト・アンダーソンによる『想像の共同体』に対して日本近代の共同体の紐帯を「想像」以上に「能率」に見出したというわけである。建築などをやっていると近代建築の効率性を云々するのは定番なのでそれが社会の結束バンドになっているのは言ってみれば当然だろうなという気もする。しかし面白い視点は多くある。そもそも近代日本が急激に増加する人口を処理するためにそれらをマスとして効率的に把握する必然性が政治にも経済にもあったこと。つまり20世紀の単なる科学信仰が能率を重視したわけではないということ。またそこで建築における機械信仰は社会、文化にかなり浸透していたようであるということ。さらにいわゆる三種の神器である冷蔵庫、洗濯機、掃除機、は生活の能率を上げる道具でありそれを大衆とよばれるマスがこぞって購入したのはまさに社会が能率で構成される様と言えるだろう。また明治啓蒙思想への反動として文化を重んじる(能率の拘泥しない)教養が生まれ、文学、哲学が重視されるがそれもつかの間の出来事だったということ。この束の間の教養は戦後細々と生きながらえたが見事に大学からも20世紀末に消え去った。能率の共同体は21世紀に入っても健在ということである。

モンテビデオからフェリーでブエノスアイレスに昼過ぎに戻る。飛行機は夜なのでパレルモを散策。白い皮の小さなカバンを一つ買う。エセイサについてマルベックを飲みながらサッカーを見る。これでステーキがあったら最高だが,,,,




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