ポストモダン以降の転回
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ポストモダン以降に3つの哲学的転回があると言ったのは岡本裕一郎である。その3つは
① 自然主義的転回
② メディア技術論的転回
③ 実在論的転回
実在論は建築との関係が深いため身近なのだけれど①と②はそういう議論はあるとしてもそれほどのものかと思っていた。しかしさらさらと読んでみるとなかなか重要だということも分かった。
① の教科書
1) アンディー・クラーク著 池上高志、森本本太郎 他訳 『現れる存在−脳と身体と世界の再統合』NTT出版2012(1997)
2) ジョン・R・サール著 山本貴光訳『心の哲学』旭出版社2006(2004)
② の教科書
1) ベルナール・スティグレール著ガブリエール・メランベルジェ 他訳『象徴の帝国−ハイパーインダストリアル時代』新評論2006(2004)
2) ダニエル・ブーニュ著水島久光 西兼志訳 『コミュニケーション学講義−メディオロジーから情報社会へ』書籍工房早山1998(2010)
三次の模型
天王洲に用事があり建築倉庫に寄ってみた。たくさん模型があって学生は楽しいかもしれないけれど、皆さんの模型がどの設計段階の時にどういう目的で作ったのかが書かれていないのでほとんど僕らには無意味な展示である。でも青木さんの三次市民ホールの大きな模型は興味深かった。本物は雑誌でみているから知っているが、こう言っては失礼だがなんの変哲もない外観である。模型もおそらく実施段階に作られたものだろう大きな模型で実物そっくりである。なんでそれが興味深かったかというと、なるほどプロポ案に模型写真を載せていない理由がなんとなくわかったからである。プロポ案の目玉は平面を上から覗き込むようなパースでその中に人が1000人くらい描かれているものである。もしここに模型写真があったら最優秀にならなかっただろう。賢いプレゼンの作戦勝ちだったことがこの模型をみてよくわかった。それを見るだけでもきた甲斐はあった。
象徴の貧困
ベルナール・スティグレール 著 ガブリエル・メランベルジェ他訳『象徴の貧困−ハイパーインダストリアル時代』新評論2006(2004)は以前読んだ『偶有からの哲学』の前著である。ここでも前著同様補綴性の話は出てくるが、現代における人間の補綴性が種としてITやテレビによってなされることで現代人から象徴を読み取る能力を喪失させている(象徴の貧困)と否定的に捉える。テレビは「誰でもない」意識を蔓延させ、ネットは人に先回りして欲望を規格化する。著者はこれを象徴の貧困と呼び人々の芸術性とともに政治性を失わせるという。というのも政治とはジャック・ランシエールが言うように感性の産物である。人々のsympathy(共感)とempathy(感情移入)が政治意識を生むのである。
先日ディエゴと水戸に行く時行きも帰りもずっとトランプの話で費やした。時差ぼけなどなんのそのである。その中で彼が面白いことを言っていた。二人の候補の応援団は互いに直接会うこともなく、相手と議論することもなく、相手を説得するというような場面がまるで起こらない。お互いはテレビの中に相手を見るだけである。まるでイランイラク戦争をテレビの中のみで見るヴァーチャリティーに近い。これはまさに象徴性の貧困である。
政治と芸術は紙一重である。共感と感情移入が政治を作り芸術も作る。象徴の貧困を回復するにはどうしたら良いのだろうか?
コンテクスト、歴史、記憶
拙訳『言葉と建築』の第二部には18のモダニズム概念が並んでいるがよく見ると3つの言葉がよく似ている。それらは「コンテクスト」「歴史」「記憶」である。この言葉の意味の差はこの本の中では、コンテクストは形の中、歴史は文献の中、記憶は心の中に宿るものである。これらの中で何がデザインに有効かと考えるなら一番てっとり早くてわかりやすいのは形に宿るコンテクストである。モダニズムは手っ取り早くわかりやすいことを大事にしたので彼らはコンテクスチュアリズムを生み出したのである。よくコンテクチュアリズムはモダニズムに対立する概念だと言われるが、立地環境を気にしないという面では確かにモダニズムはアンチコンテスチュアリズムだが、フォルマリズムという点ではコンテクスチュアリズムは上記三つの概念の中では最もモダニスティックなのである。そして次に使いやすいのは歴史である。なぜならこれもすでに文献化されて認知されているからである。認知されているものは使いやすい。よって記憶が最も扱いにくい。こんなあやふやなものを根拠に建築を作るのは危険極まりない。だから滅多にこんなものを使って建築を作る人はいない。しかしそれだからこそ成功した時の効果はもっとも大きい。記憶を頼りに作った建築を探してみればいい。実に奥が深く感動的である。しかしそれは説得できるものではない。できてみて初めてわかるというようなものである。
2016年のIT
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このところ何かするのに必要なものはマックとiPadと大きな虫眼鏡である。以前ベルナール・スティグレール浅井幸夫訳『偶有からの哲学——技術と記憶と意識の話』新評論2009の中で書かれていた人間の補綴性を思い出す。それは人間はそもそも補綴性というべき不完全性を生来持っている。入れ歯だ義足だ補聴器だというようにどこか悪くなるとなんらかの技術でそれを補う。というわけだが、漢字を覚えきれないからマックを使い。新しいことを知るためにipadを使い目がもはや見えないので虫眼鏡で補強するわけである。だからこれら外在かされた技術に記憶が宿るというわけである。孫たちは驚くだろう。おじいさんはこんな不便なITを使っていたんだと言って。
四谷には早々とクリスマスイルミネーション
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本日は論文発表会。設計系の人で論文と卒計の両方をとる人の論文発表である。エンジニア系の人は論文だけという人もいてその人たちの論文発表会は1月である。というわけで本日は毎年、設計、歴史、研究室の人たちが発表するのだが今年は設備、構造の研究室の学生が一人ずつ発表した。これは面白いことだ。来年もさらに増えればと思う。さらに今年は発表の着眼点が面白いものが多かった。「これは満点」なんてかなりリップサービスしたのはそういう満足を少しは表明しておいた方がいいだろうと思ったからである。
昨日少々飲み過ぎて今日はこっそり帰ろうと思ったが、そうは行かず4年生と飲みに行った。しかしあまり長居せずに9時頃帰路へ。三栄通りには早々とクリスマスの飾り付けである。
パインギャラリーがバロックに
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Diego Grassとパインギャラリーを訪れる。彼はOn Architectureという建築作品のビデオサイトを作っている。世界の名建築200くらいがそこへ行くと見られる。世界の有名建築学科、イェール、ハーバード、コロンビア、MIT etcはこのサイトをサブスクライブしている。毎年30ずつ増やす計画で今回日その一つとしてパインギャラリーを撮って貰った。久しぶりに来たら当初より飾る予定だった六曲屏風が飾られていた。急にストイックだった空間がバロックになっていた。
とても残念気持ちである
今回のアメリカ大統領選は僕の中ではこれまでの選挙とはだいぶ思い抱く感情が異なる。というのもたまさか大統領選の予備選が終わる頃にポケットワイファイを解約して光を導入したのをきっかけに光テレビを入れて毎朝BBCを見るようになったのである。その内容の3割くらいは毎日大統領選である。加えてその頃足首の痛みがひどくジョギングをやめて自転車で皇居を一周するようになり自転車をこぎながらアイフォンでBBCを聞くようになった。するとここでもテレビとは異なる内容で大統領選の様々なレポートが流れるのである。大統領選のことが頭から離れる日はなくなってしまった。それゆえ以前の選挙の時よりは二人の候補の人となりをより多く知るようになってしまったのである。そしてそのレポートを聞き、ディベートを見ているうちにトランプが人間的に国のトップに立つ人間としては不適格であると思えてきたのである。これは政治公約以前の問題である。セクハラ事件はもとより、ヒラリーをNastyと形容する女性蔑視。自国の民を潤わせるためとはいえしてはならない人種差別的発言。政治とは様々な利害関係の調整の上に成り立つのだと僕は思っている。一人勝ちすることが政治だとは決して思えない。一人勝ちすることが勝ちであることを掲げて国民を扇動するのはあってはならないことだと思う。知性も理性も何もなくなってしまう。
30年前にアメリカに留学した時にアメリカ文化の授業でアメリカで最も尊敬されるのは学者でも医者でも弁護士でもなく金を稼ぐ実業家であると聞いた時に浅ましいがプラグマティズムの一面なのだと諦めていた。その後そのプラグマティズムは希薄化したかに見えたが、30年経ってまた(まだ)その価値観がはびこるのを見るのは本当に悲しい。