コンパクトな町で突然の出会い
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学会中は会場で色々な人にお会いするのが通例。しかし今回は会場の外でばったり色々な人に会うのでびっくり、中日の夕方は平瀬さんの家のリノベを見せていただき、そこでシャンペン飲んで、中洲に食事に行くと座った隣が松岡さんで、そこを出て屋台に行ったら座ったとなりが栢木研の人たち。このコンパクト感がいいねこの町は。
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学会中は会場で色々な人にお会いするのが通例。しかし今回は会場の外でばったり色々な人に会うのでびっくり、中日の夕方は平瀬さんの家のリノベを見せていただき、そこでシャンペン飲んで、中洲に食事に行くと座った隣が松岡さんで、そこを出て屋台に行ったら座ったとなりが栢木研の人たち。このコンパクト感がいいねこの町は。

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毎年学会の大会の空いた時間に学生たちと建築を見に行く。今年は福岡大学でおこなわれたので、佐賀や北九州に足を延ばしてできる限りの建築を見てきた。むかしながらの名建築から平瀬さんのリノベなど、加えて戦時中の石炭を掘る立坑櫓など知らなかったがすごい迫力の構造物にも出会えて面白い旅だった。
学生の投票に加えて僕の感想も交えてみた建築の印象度ランキング。
1 富久千代酒造改修 (平瀬有人)
2 旧志免鉱業所竪坑櫓 (海軍設計部)
3 佐賀県立図書館(内田祥哉+高椅てい一)
3 北九州工業大学記念講堂(清家清)
4 武雄図書館(佐藤総合)
5 風の葬祭場(槇文彦)
6 北九州工業大学 事務棟(清家清)
7 北九州図書館(磯崎新)
Wimaxが来月解約月なのでソフトバンク光に変えることにした。そういう人が多いのかどうか知らないが、工事までほぼ3 週間待たされてやっと今日午前中の予約を取り付けた。9時半頃工事の方が二人来られて終わったのは12時半。たっぷり3時間かかった。電話のジャックから光ケーブルを呼び線とともに入れて引っ張れば良いなんて思っていたらそうは問屋が卸さない。ジャックのあるところすべてのボックスの裏側にジャンクションボックスがありそこで線がスタックするのである。と言うわけでなんとすべての電話線取り出し口を開けなければならなくなった。そしてそれらは全て家具の裏側に隠れており、呼び線の音を頼りにその場所を探すこととなった。一つは、着物で満たされた桐の箪笥の裏側、一つはベッドの裏、一つは冷蔵庫の裏であった。各部屋の家具を移動しハウスダストまみれになりがら、やっと終わった。こいういことをするたびに設備メンテナンスのしやすい建物とは?としみじみ思うが設計する段になるとけろっと忘れる。喉元通れば熱さ忘れる。。
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○○を知るための○○章というタイトルのお手軽外国ガイド本がある。なんと100冊近く出ている。初めて行く国の手ごろなガイドブックがないときはいつもこれを読む。ラテンアメリカの国は手ごろガイドブックがないのでこれの世話になってきた。そして今回はペルー。細谷広美『ペルーを知るための66章』明石書店2012を読んでいる。インカ帝国の国ペルーだがインカが続くのはおよそ100年弱。あっけなく168人のスペイン人に征服された。一方この辺りの神殿建築は紀元前3000年頃から作られているというのは昨年サンチアゴの博物館でもその出土品を見て驚いたが、アンデス文明を再認識する。今度行くリマは16世紀にできた町だが、それもスペイン統治の中心都市として栄えた町である。その旧市街を見るのは楽しみである。
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自転車で新宿にメガネを作りに行く。既製品の老眼鏡が目に合わず、1時間本を読むともう読めないのである。検眼してもらうと左右がかなり度が違う。左が1.0右が0.4である。加えて少々乱視。遠近両用にしてもらうために少し大きなフレームを選ぶ。
帰ろうと思ったら大雨。少々待って雨が上がって四谷に向かって走り出すと突如雷が鳴り始めまた降るかとビクビクする。雷は止まらない、、、、しかしよく聞いているとどうも雷とは音の質が違う。太鼓の連続音のようである。すると薄暗くなった夜空に雷と共に光が輝く稲妻とは少々違う。四谷4丁目の交差点まで来てやっとわかった。謎の雷は花火である。四谷三丁目を通り越して次の交差点が花火鑑賞ベストスポットである。
大学で国際推進の委員をしている私の役目は「日本語しかできないで卒業するのは裸でアマゾン川を渡るようなものだ」ということを学生に伝えることだと娘は言っていた。
先日とある外国の方が言っていた世界的な企業の人事部は日本人の語学力とコミュニケーション能力の低さから日本人だけは受け入れを拒絶すると。
日本人の技術力が高かったころ日本人は高く売れた。しかしもはや他国に先んじるものがなくなりつつある現状でコミュニケーションできない人々の価値は極めて低い。そういうことに僕らが気がつかないのはやはり島国だからだろうしそれでもなんとかなっているという安心感からだろうと思う。日本は未だに精神的に鎖国中である。まあ鎖国だからできる文化というものもあるわけでそういう島国安住型がいてもいい。でもそれと同じくらい島国突破型いないと国としてはうまくいかないのだろうと思う。

娘の留学はいつ具体化したのかどういう経緯だったもはやあまり覚えていないが、ファッションの勉強をしたく世界の三つの大学(ロンドンセントマーチン、アントワープロイヤルアカデミ、ニュヨークファッションインティチュートテクノロジー)を選び、一人でその大学を見て回り、ファッションマネジメントを学べてしかも一番学費の安いニュヨークに決めたのが1年くらい前でろう。そして準備を重ね、toeflをなんども受けて、レターを書き直し、学資の工面を祖父に相談し、合格通知を今年初めにやっと受け取り、大学を卒業し、学資のために働き、そして昨日日本を発った。今ころニュヨークFITの寮で荷解きでもしているころだろう。
今から31年前のちょうど今ころアメリカに旅立った自分の記憶が蘇る。あの日もひどく暑い日であまりの荷物の量に母親が手伝ってくれた。黒い巨大なずた袋に登山用のキスリングをしょって行った気がする。ロサンゼルスでは寮には入れず兄の知り合いの家に先ずは泊めていただき家探しをして、そして夏休みのUCLAの英語学校に通い始めた。
娘はそこに行くとスーツケースにバックパック。自分一人で行ったようで立派。ニュヨークの空港からはタクシーで行くと行っていたが行き先が決まっているのは心強い。
僕は大学院のポストプロフェッショナルコースで1年半(3semesters)かかるところを学費とか奨学金とかの関係で1年(2semesters)で終わらせる交渉をしてそうした。よって日々とんでもなく忙しくて、心が折れるだとか、英語がわからないとか、友達関係が上手くいかないだとか、そういうことでくじける暇はなかった。高性能マシンを24時間駆動させるようにやることをこなすので精一杯で気がつくと卒業式だった。おそらく娘も4年かかるところを3年で終わらせので僕と似たような状況にはなるだろう。その意味では僕同様に辛い思いに耐えるなんていう状況は想像できないけれど、むしろ、期待をもって行った大学がつまらない場合にガックリということもあるだろう。でもそれでも3年のリクワイメントの中から自分なりに何かを引き出して、身につけることが重要である。石の上にも3年である