二つのナショナリズム
![]()
出先から東京駅の丸善に寄る。小一時間、新刊とナショナリズム本を渉猟。ナショナリズムは今二稿を書いているグローバリズムに深く関係しているからである。特に僕が第一次グローバリズムと呼ぶ二十世紀初頭においては帝国主義が国家としてのまとまりを作るために半ば必然的にナショナリズムを招来した。一方、建築を、始めとする文化的モダニズムはインターナショナルなスタイルを生み、世界に広がった。こうした文化的帝国主義に対して、侵略された方はこれも半ば反射的にナショナリズムの殻を被って抵抗したのである。拡大という行為はする方も受ける方もナショナリズムを纏うというのが私の勝手な仮説である。
そんな仮説に対する正解が載っていそうな本があったので早速夕飯をとりながら読み始める。
孔の次
石川義正『錯乱の日本文学建築/小説をめざして』航思社2016を編集者の勧めで読んでいる。初出は『早稲田文学』2008年から2013年までに掲載されたものである。タイトルにある建築/小説とは建築のような無料ではない記号(これを著者は形象とよ呼ぶ)を内包する小説のことのようだ。つまり著者の仮説は建築と小説がある時代の空気しかも金が絡む空気を共有せざるを得ないということであり、そのことが一番わかりやすいのは(僕にとって)村上春樹、伊藤豊雄、柄谷行人が共有する形象である。
伊藤の閉じたホワイトUが開いたシルバーハットに変貌する姿と、村上の小説がデタッチメントから始まり孔を主題化していく変化、柄谷の『隠喩としての建築』におけるシステムの自律性とその不可能性、に形象の共通性を見出している。ちょうどその頃僕はやはり村上を引用し、デタッチメントからコミットメントへという論考を記しており、切り離されるのではなくつながることを目指そうとしていた。
しかし問題はこの次である。開けた孔は開けっ放しでいいのだろうか。その孔からなんでもかんでも入ってきていいのだろうか?孔を通過するものを正確にコントロールすることが重要なのだと思う。
エチケットも時代とともに変わる
![]()
なぜかルノワール展のミュージアムショップに内村理奈さんの著書が3冊並んでいた。どれも面白そうだったが2冊買って一冊風呂で読んだ。19世紀頃のヨーロッパのエチケットのことが色々な側面から描かれている。面白い。例えばchemise(下着)で人前に出てはいけないというが、マリアントワネットはそいうことをしてその姿の肖像画さえある。この絵は書き直させられたらしいが、革命後質素を基調とする時代に入りchemiseドレスが流行るのである。下着がいつしか表面に出てくるのは今も昔も同じということのようであるし、エチケットも時代とともに変わる。
矛盾を抉り出すのがアートの価値
![]()
我が家と理科大の神楽坂の間に外濠を見渡すギャラリーがある。MIZUMAアートギャラリーである。あの会田誠を世に送り出した三潴末雄が運営する。彼の著書『アートにとって価値とは何か』幻冬舎2014は彼の生い立ちそして彼の価値観が記されとても分かりやすいし納得がいく。
大学時代に学生運動に明け暮れた著者は卒業後広告業からアート世界に転身した。そこで20世紀の初期のアートが資本主義への反体制スタンスをとることでうまれるカウンターカルチャー(前衛芸術)として価値を持った。しかし市場経済がグローバル化しアートが戦う相手を失い現在アートが独自の価値を持つのが難しい。そこで著者が言うのはそうした矛盾が見えづらい現在でも西欧が世界に発信した文明に内在する人間社会との齟齬をえぐり出すのが現代アートの存在意義だという。
そうは言ってもアート自体は市場原理に従う商品であり、21世紀に成功する作家は大量生産型の工房作家、ダミアン・ハースト、ジェフ・クーン、村上隆などとなっているとこれはルネッサンスや江戸の工房型作家に回帰しているのだと分析している。著者が発見した天才会田誠などはスタンドアローン型で戦いづらいものだと嘆いている。
アートの大量生産というのはそもそも矛盾しているのだが、おそらくこれからの世界では大量生産大量情報発信というマスを相手にするアートと、オーラを纏うもう一つの一品生産型が共存する時代になるのではないだろうか??グローバルな一品生産である。
