オートクチュールは放っておけば無くなるだろう
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ファッションの起源は宮廷貴族の服飾デザイナーが独立してオートクチュールを作り始めた所にある。その最初がシャルル・フレデリック・ウォルトである。オートクチュールの顧客は20世紀半ば約2万人いたが、現在は100人代と言われている。オートクチュールの顧客は高級プレタポルテで欲求を満たせることを知ってしまったのである。加えて現在では昔ならオートクチュールを着ていた階層の人々がギャップやユニクロなどの製造小売業の衣類を着る時代になった。
建築も状況はかなり近く、昔ながらのオートクチュールで顧客によりそうアトリエ建築家がいる一方で、世界中で半ばマニュアル化した設計手法を駆使してグローバルに仕事をする製造小売業のような設計事務所、設計施工の会社がまさにプレタポルテのごとく大量大規模な生産をしているのである。
果たしてオートクチュールは無くなるのであろうか?ファッション界の予言は難しいが建築界では残る。高級高価なものは減少するかもしれないが、普通廉価なオートクチュールは残るだろう。なぜなら今世界で求められている小さなローカリティーへの対応は製造小売業型の設計事務所ではできないからである。アルゼンチンのエスニック民族の現在住居群を製造小売業設計事務所は設計しないからである。
野生の建築家はその意味では日本にいるだけでは今に絶滅するだろう。製造小売業が世界のマネーに食らいつくように野生の建築家も世界のローカリティーに食らいつくしか生き延びる道はない。そう思って僕は世界を嗅ぎ回っている。
人生訓とは、エスキスチェックとは
人生訓みたいな話を聞いたとき、それを受け入れるかどうかは、その話の内容の真実さによるのではなく、その話をしている人の生き様に納得がいくかどうかにかかっている。というのもその人はその言葉によって成長してきたのだからその言葉を受け入れればその人のようになっていくからである。
人生訓とまでいかなくても建築のエスキスチェックの言葉の半分はそれに近いようなところがある(半分は技術的に真偽がはっきりしている問題である)。だからそのエスキスチェックを受け入れるかどうかはそのエスキスチェックの真実さによるのではなくそのエスキスチェックを語る人が作ってきたものに納得がいくかどうかにかかっている。
その意味では現在僕らがやっているように教員が自分たちの作ってきたものを示し学生が教員を選べるシステムは妥当だと僕は考える。もちろんどこでもそんなことができるわけではない。私立大学で学生も先生もたくさんいるからそういうことが可能で、国立大学ではそれは不可能である。僕が非常勤で行っていた国立大の3年生は否応なく全員が僕のエスキスを受けねばならなく彼らに選択権はなかった。
話を人生訓に戻すと、大学の教員はあるところでは専門領域を離れて人生訓的な話をする機会もあるのだが上記のとおり、そこで重要なのは自らが依拠した人生訓を晒すことではなく、彼らが依拠すべき人生訓を想像することなのである。そんなことはほとんど不可能に近いのだが、唯一やれて、やるべきことは自分が依拠した人生訓とそれによって自分が培った価値観を相対化することである。そしてその上でそれを前提にした上で、自らを晒すなり、殺すなり、そこからは自由である。
新しい建築フィールド
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水野大二郎+ファッションは更新できるのか?会議実行委員会『ファッションは更新できるのか?会議——人と服と社会のプロセスイノベーションを夢想する』フィルムアート社2015の中に水野大二郎は「ひろがりとゆらぎ、角度と精度、ひとりで速くとみんなで遠く—インターネット全体社会のファッションデザインを想像する」という長いタイトルの論考の中でこれからのファションデザイン界を上のマトリックスにまとめている。
このマトリックスは横軸に、個人⇄組織、縦軸に、遠く(間接ビジネス)⇅速く(直接ビジネス)が設けられている。つまり従来の個人ブランドは左下、組織ブランドは右下でありこれらは原則ビジネスとして商品を作っていた。それは基本的には世界的に成長することを目標としていた。一方マトリックス上部はセルフクリエートの場を想定しており原則ビジネス的ではない。そうした野生のクリエーターが集団化すると新たな創造が生まれる。
そんな図である。このマトリックスが実に建築界にもあてはまるので赤で少し書き込んでみた。この場合左上のセルフビルドの野生の建築家は単に生きられた家を作っていた住人を超えた存在と言えるだろう。その野生の建築家が集まったところに生まれるさらなるクリエーションはまだそれこを夢想段階である。
とあるファッショデザイナーの教育
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ファッションデザイナーの山縣良和は作るだけではなく「ここのがっこう」というスクールを創設して教育をしている。彼の教育の方法を読んでいたく共感した。彼の重視するのは作るものと人生の連動であり、親や教育や社会によって歪められた自分を素に戻して「自分が今のような美意識や価値観を持っている」ことについて徹底的に向き合うことをさせるという。そしてその素の自分は「共感」を生むかどうかで判断していくという。ただの「素」では意味がないという。そのために作品の批評はまず学生同士で行わせるという。
slouchy
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テラスでハイウェル・ディヴィス(Davis, H.)、桜井真砂美訳『ブリティッシュ・ファッション・デザイナーズ』ブルース・インターアクションズ2009(2009)を眺めた。昨日読んだfashion visionariesで世界のデザイナはパリからロンドン、アントワープに重心移動しているその興味の先にこのブリティッシュファッションの本がある。27人のデザイナーが取り上げられその反骨精神としてのブリティッシュファッションが語られる。そして27人のうち15人つまり半分以上がセントラル・セント・マーチンズ・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザイン出身である。もはやこうなると世界に冠たるファッションの中心的学校と言えるだろう。
とはいえ僕はロンドンのファッションがそれほど好きな訳ではない。それはきっとパンクをそれほど理解できていないからだと思う。その中ではステラ・マックイーンの服は好み。英語ではslouchy と表現される「前かがみな緩さ」は建築にも使えそうな形容詞。
ファッション潮流はやっぱりロンドン、アントワープかな?
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午前中事務所に平瀬さん、川尻さん、中野さんが来られてグラフィック英語版作成の打ち合わせ。Idea booksという販路http://www.ideabooks.nl/catalogsearch/result/?order=publicatiedatum&dir=desc&q=kajima+instituteがあることを知る。ここからamazon ukなどに広がるとさらにヨーロッパでの広がりが出ると思われる。
中川君と木島さんが熊本から帰京。木島さんから事務所の人全員に必携の品ということでレスキューキットが配られた。いつ何が起こるかわからない。
夕方青山ブックセンターで本買いだめ。その中の一冊がロンドンのファッションライターでヴィヴィアンウエストウッドと働いた経験もあるLinda Watsonの新刊(2015)Fashion Visionariesである全盛期からの伝説的ファッションデザイナー75人が収録されている。それを見ると彼らの活躍国はフランス30人で全体の40%、イギリス16人で21%、アメリカ10人で13%、イタリア9人で12%、日本6人で12%、ベルギー3人で4%、スペイン1人で1%ある。その後配偶者と森美を観察。http://ofda.jp/column/
しかしこの活躍国比率は1950年代以降に生まれたデザイナーに絞るとフランスは23%と激減、イギリスは29%と激増、アメリカ、11%微減、イタリア11%微減、日本4%激減、ベルギー17%激増という結果である。つまりフランス、日本が低調で、イギリス、ベルギーが好調ということである。それを裏付けるように出身学校を見ると、全体ではロンドンセントマーチンズ・スクール・オブ・アート4人で、文化服装学院3人、パーソンズ美術学校3人、アントワープ王立芸術アカデミー2人であるが50年代以降のデザイナーで見るとセント・マーチン4人、パーソンズ2人、アントワープ2人、文化服装1人という結果である。