ウッツォンセンターでの連続レクチャー
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昨年秋にデンマークのウッツォン・センターで行ったレクチャーはウッツォンレクチャーシリーズの一つでした。それがネット上ですべて閲覧可能になっていると知りました。興味のある方はご覧下さい。
https://vimeo.com/118112417
このレクチャーシリーズ1回目が2014年の8月、5回目が今年の2月この調子だと1年間に10回くらい行うのでしょうか?世界の大学は日常的にこういう知的交流をしています。見習わないと僕らはアジアの辺境に置いてきぼりになりますね。
#1 プリンストン大学 Sigrid Adriaesnessens 「形態発見への対話」
#2 東京理科大学 Taku Sakaushi 「フレームとしての建築」
#3 ロイアルアカデミー Thomas Be Jensen 「レンガの言語」
#4 ETH Tobias Bonwetsch 「ロボットによるレンガ施工」
#5 ETH Matthias Rippman 「形の発見」
関係のデザイン
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1998年にフランス出身の理論家・キュレーターであるニコラ・ブリオー(1965-)によって書かれた『関係性の美学』によればリクリット・ティラヴァーニャ、リアム・ギリック、フィリップ・パレーノ、ヴァネッサ・ビークロフトなどの作品を「関係」を創出する作品として評価している。その関係性をウォーカーアートセンターのキュレーターであるAndrew Blauveltが時代の推移として表化している。この表はおそらくモダニズムを第一段階として、ポストモダニズムあたりを第二段階に置き現在を位置づけている。
それによれば、時代は左から右に次のように変化している。
統語論⇒意味論⇒語用論
形⇒内容⇒文脈
役割
デザイナー⇒作家⇒編集者
制作者⇒消費者⇒自給自活者
哲学
構造主義⇒脱構造主義者⇒プラグマティスト
文化
誰でも知っている⇒地方の⇒つまらない
図像的⇒語法的⇒散文的
論理
美学的⇒文化的⇒社会的
正式の⇒象徴主義の⇒プログラムの
過程
線状の⇒人工頭脳の⇒網状組織
反復の⇒可変の⇒生成的な
無限の形態⇒可変の解釈⇒偶然の解決
現在を語用論の時代とするのは分かりやすい言い方だろう。つまり同じデザインでも文脈が違えば意味も見え方も違うという認識である。しかしそれはそういうこともあろうが、建築は今でも形だったり、美学だったり、そんなこともなくなるわけではない。
建築論・建築意匠小委員会
昼から学会で建築論・建築意匠小委員会 西垣先生、岡河先生、小林克弘先生、奥山先生、市原先生、入江先生、岸田先生、白井先生、富永先生と集まられ、少し熱の入った議論を行った。話が少し展開しそうな気配である。それにしても、建築論と、意匠論とはどう異なるのか、その差とそれぞれの定義付けにはどんな歴史があるのだろうか??
荒木町午前4時
卒業式謝恩会。毎年ちょっと寂しい時期である。学位授与式では君たちは眩しいほどの可能性があると言ったのだが謝恩会では、とはいえどもその可能性を開花させるのはそんな簡単ではないと言った。
・よくこれからは君たちが主役だというけれどそんなわけがない。まだ60代の人が首相をやって50代の教授がいて40代のボスのしたで働くそんな社会が明日からなくなるわけではないのである。そして社会は新しく社会の構成員になる君たちにレッテルを貼りたがる。これは人間の分類本能に近い。たくさんあるものは使いやすいもの、自分の得になるもの、不要なものなどに分類したくなるのである。このレッテルは1年以内に貼られそして一回貼ったレッテルはなかなかはがせない。つまりこの時不用品のレッテルを貼られた人はほとんど一生不用品になってしまう。それを剥がして新しいレッテルを貼るためには最初の努力の数倍の努力が必要になるだろう。だから最初に努力しないといけない。毎日少しでもいいけれどとにかくスケッチを書いて本を読む。建築家になるにはこの二つしかない。とても単純なことだけれどそれを続けるのは簡単なことではない。
さてスランプに陥ったらどうするか?旅に出るといい。自分を刺激する何かに触れるために日常を離れるしかない。そうであるこれまた単純な行動である。しかし非日常の遠くに長く社会を離れるのは簡単なことではない。皆が社会の主役になるための準備はすべて単純な3つくらいのことをするだけである。しかしどれもがそう簡単なことではない。そしてそれをやった人がこれからの社会の主役になるのだと思う。
ってな話を4時まで寝ずにやっていた珍しい。久しぶりの朝帰り。
東京は浅はか
菊池成孔『服は何故音楽を必要とするのか―「ウォーキングミュージック」という存在しないジャンルに召喚された音楽たちについての考察』河出文庫2012のこの長い副題に惹かれて読んでみた。菊地成孔同様僕もファッションショーの大ファンである。と言ってもそんなにたくさん見たことはないし、TGCに行ったこともなければパリコレも見たことはない。何度かトライしたけれど、そんな都合よくパリに行ける訳もなく、、、
ファッションショーはモデルとウォーキングと音楽とライトの総合芸術だと思っている。さらに言えば年に何回か勝負をかけたデザイナーのエキスが発露する一発勝負の瞬間芸でもあるから興奮するのだと思う。
ところでここで菊地が書こうとしていることはそういうようなこととはあまり関係なく、ファッションショーではモデルが音楽のリズムを無視して歩くそのズレの構造を問題視しているのである。実は僕にとってはこのズレもまさにこのファッションショーが芸術であることの証であるように思える。そもそも芸術における美とは古来完全性に宿っていたのだろうが、ある時からそこにズレを内包した不完全性にこそ宿るという感性が受け取る側に生まれてきたと言える。そのズレを美的なるものとして感じられる閾値は時代によって異なるのだが、ある時代からそれは確実に生まれてきた。
菊地が言うにはパリやミラノはずれているのだが東京(TGC)ではモデルは音に合わせて踊りだしているという。つまりズレがない。それはエレガンスのないゴージャスであり、シックのないセレブだと菊地は言う。今の感覚で言えばズレのないストレート表現は浅はかということなのである(菊地の観察を聞いてTGCは行く必要がないという結論に至る)。
今回の金沢
今回の21世紀美術館の展覧会は二つの展覧会が合体して充実した内容だったと思う。一緒に連れて行った配偶者も昭和初期の日本の建築家の充実度に驚いていたようだし、そこから一気に3.11以降までたどり着く展覧会は見たことがない。しかしそのキュレーションをポンピドーがやっているというのも情けない。日本のキュレーターたちよ奮起せよと思わざるを得ない。ポンピドーでフランス建築展を日本人がキュレーションできるだろうか?
というわけで今回の金沢旅行の収穫は食でありそのなかでもこの加賀野菜の金時草である。思わず帰りにスーパーに行ったらひと束だけ残っていたので買って帰った。さてこれからお浸しにして食べよう。
九谷の現代作家がいい
午前中に市場に行ってつまみ食いをしようとタクシーにのったら運転手さんが近江市場は昔はよかったけれど新築したから家賃が上がり、高くなって地元の人は誰も行かなくなったという。単なる観光スポットだよと言われて行き先を一路港に変えて港の食堂に行くことにした。どうせ港の方へいくのだからシーラカンスの港未来図書館に行ってみる。水玉状に窓がついた外壁がカーテンのようである。中は均質な光が心地よい。その後港の厚生食堂に行く。ここは港で働く人のための食堂なので海鮮丼が1000円で近江市場の2.5分のⅠである。しかし味はまあまあ。午後は県立美術館で九谷焼きをじっくり見る。九谷をこれほどきちんと見たのは初めて。こういうものは東京ではなかなか見られない。古九谷もいいし現代作家の腕も素晴らしい。久しぶりに陶芸に感動。