チャラヤンの作品集長方形じゃない
本棚の本の背がひとつだけ出っぱているのが気になって引っ張り出すフセイン・チャラヤンの作品集である出版社はRizzoli。中を開けてしげしげと見ると、どう見ても字や写真が本の四辺と平行ではない。定規を当ててみるとやはり斜めである。もう一度本を閉じて角に三角定規を当てると90度ではない。これってわざと?だよねチャラヤンならやりそうだよね。こんな買ってから半年も気づかないような微妙なことするんだ。ちょっと感動した。
本棚の本の背がひとつだけ出っぱているのが気になって引っ張り出すフセイン・チャラヤンの作品集である出版社はRizzoli。中を開けてしげしげと見ると、どう見ても字や写真が本の四辺と平行ではない。定規を当ててみるとやはり斜めである。もう一度本を閉じて角に三角定規を当てると90度ではない。これってわざと?だよねチャラヤンならやりそうだよね。こんな買ってから半年も気づかないような微妙なことするんだ。ちょっと感動した。
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建築がソーシャル化する昨今、音楽もそうなのかと思い『ソーシャル化する音楽』円堂郡司昭著、青土社2013を読んでみた。これは著者自ら言うように渡辺裕『聴衆の誕生』を受けて音楽が音楽を一生懸命聞き取る「聴取」することから変化し始めたその先についてポピュラーミュージックについて分析している本である。そのポイントは音楽が「分割」「変身」「合体」を遂げているというものである。分割とはアルバムという概念が壊れ聴く人が聴きたいものだけをネット上から獲得するようになったこと。変身とは椹木野衣が『シミュレーショニズム』で言うようにリミックス、カットアップ、カバーと言った手法に加え着メロなどに変化を遂げていること。そして合体とは演奏する人聴く人という境界が無くなりカラオケなどで聴く人が演奏する人と一体となる現象が様々見られるということである。こうした変化のひとつの原因はネットの普及であり、音楽が社会を網目状につなぐネットワークの中で変化していると言うわけである。所謂建築のソーシャル化はもう少し政治経済と絡んだ話なので同じソーシャルでもちょっと違うということである。
今日は修士論文の仮綴じ提出日。提出後僕が主査している自分の研究室の論文と副査をしているほかの研究室の論文が届けられる。全部で15個くらい。今日は2時からの会議を終えてさっさと帰りやることがあったのだが、これらに目を通すのを今日やらないとやる日がない。ということで一気に全部読んでコメント書いて著者に渡した。修士ともなるとそれなりによくかけているものが多いが、これは卒論とどう違うのと思うものも少々ある。まあ今日はまだ仮綴じということで最終に期待しよう。帰路、金町で電車に乗ったら坂牛研OBの鬼沢くんにばったり会った。現場の帰りとのこと。入社2年目でプロジェクトを3つも持って奔走しているとのこと。なかなか勉強になるな。彼の事務所のシステムが面白い。構造5人、意匠5人いて構造は他事務所の仕事も受けているとのこと。一体どんな建物作っているのだろうか?彼は奥さんも坂牛研。研究研カップルが結婚した第一号だろうか?もう子供もいるというから大変だ。幸せに。
久しく縁の無かったアルフレックスにクライアントとやってきた。すでに一年間相談してきた家具の最終決定ということでダイニングテーブル、ダイニングチェア、スツール、ソファ、クッション、カーペット、ソファ用のテーブル、ダイニングペンダントなどなど、、、、、を見にやってきた。既にクライアントと家具屋さんで決定されていたものの材質、色を最終決定するために設計が模型を持ち込み、確認をした。さすがに量も多くて2時から始めても5時半までかかった。いいものを選ぶことができた。ペンダントは違うところで選んだそうだが、たまさかアルフレックスにぶら下がっていた。直径12センチガラス厚が3センチくらいあり質感がある。12ボルトハロゲンを差し込むソケット部が鋳物で実にいいデザインである。これはいい。
先日みかんぐみの竹内さんに進められた宇沢弘文、内橋克人『始まっている未来-新しい経済学は可能か』岩波書店2009を風呂で読みながら驚いた。それはローマ法王が100年に一回出す「レールム・ノヴァルム」というお言葉の20世紀版を作ったのが宇沢氏だったという事実が書かれていたからである。僕はこの言葉を数年前に知ってとても感動した。レールム・ノヴァルムの19世紀版は1891年レオ13世が出されそれは「資本主義の弊害と社会主義の幻想」というもので20世紀版はそれから100年たちヨハネ・パウロ2世が出し「社会主義の弊害と資本主義の幻想」というものだったのである。なんとタイムリーなことを言うものだと感心していたのだが、それを考えたのがキリスト教徒でもない宇沢氏だったと本人自ら本書に書いていた。改めて宇沢氏の世界的な評価の高さを感じるものである。
そしてこれを読みながら宇沢氏がシカゴ大学で同僚としてのミルトン・フリードマンを学者の風上にも置けず尚且つ人間的にも品格を欠きその教え子であるシカゴボーイズの先頭にいるのが竹中平蔵でありその取り巻きたちが政府に媚びて経済学を社会のための何の力にもできなかった経過がよくわかった(オヤジが会うたびに徹底して批判していた竹中平蔵のダメさがよくわかる)。
ところで僕は現在のネオ・リベラリズムに反対する書も賛成する書も読んでみたし、賛成する人間とも話をする(私の研究室にはニューヨーク大学の経済学部出身でハイエク、フリードマンをよく知る学生がいたりする)のだが、その結果私の今の気持ちはこうなってきた。ネオリベラリズムの中心的コンセプトである競争原理であるが、これはマクロに見たら反対、ミクロに見たら賛成である。競争原理を原理的にすべてに応用する、しないと決めることが原理的なのである。
私は昔からリバタリアンである。しかしこれはとても私的な感情として生かしておけばいいと思っている。例えばすでに戦う同じ土俵に乗っかれた人間同士は戦えばいい。その範囲では競争原理でいい。しかし視点をもう少しマクロにとったときは様々な別な条件があるのでありそれを知らずに一律に競争原理を持ち込むことは想像力の欠如としか言いようがないだろう。私の知るリバタリアンはどうしてああも原理的なのだろうか?競争原理と心中したいような人間に限って所属社会における評価が低い。きっとそれにたいするルサンチマンがそう言わせているのであろう。競争原理を徹底してくれれば俺はもっと評価されるはずだというよな、、、我が国の首相も世界での評価が低いことへのルサンチマンがそう言わせているような気さえする。弱い犬ほどよく吠える。
アルゼンチンから分厚い小包が届いた。開けてみるとアルゼンチン建築ビエンナーレの展覧会カタログである。昨年その展覧会に出品するためのパネルデーターA1サイズ6枚分を送っていた。このビエンナーレはなかなか豪華で四つのテーマに4人のゲストを招待した。伝統と創造というテーマにスペインからフランシスコ・マンガード、技術:職人技と工業技術にブラジルからパウロ・メンデス・ダ・ロシャ、サステナビリティ:自然と社会にフランスからアン・ロカトン、都市の風景に日本から妹島さんである。各テーマごとに会場が異なり、そこに招待作家の作品が国外から8国内から8程度A1サイズそれぞれ6枚展示されたようである。それがカタログとなって送られてきた。全300ページくらいある分厚いもの。私の場合先方のキュレーターが「赤い家」を指定してきていた。そしてそれは伝統と創造のテーマにくくられていた。それがどういう理由なのかはよくわからない。
カタログも美しいレイアウトだが、HPもとても見やすく美しい。是非下記をクリック下さい。
http://biaar.com/realizaciones/red-house/
いつでも期待していたのにそうならなくてがっかりすることはある。人生は悲喜交々である。コンペに入る入らない、いい仕事が入ったり逃げていったり、などなどまあ数えたらキリがないのだが、最近二つかなり引っ張られた挙句に「できません」と言われ愕然としたことがある。一つはとある理由で人を探し、これはと思う人を1年追っかけて食事も何度かしたり、メールでもいろいろやり取りした挙句に「できません」と断られたこと。もう一つは拙著『建築の規則』の要約英訳をとある方に春にお願いし、夏に出来ると言われ、秋に伸び、冬まで待ち、そして最後に「できません」と返事をもらったことである。うーんできないなら最初に言えよと言いたくなるのだが、言えない事情もあるのだろうか?前者は状況を鑑みるにある程度仕方ないかもしれないけれど、後者はれっきとしたビジネスである。納入期限を無視した挙句に納入しないのだからそれは罪だ。
それにしてもプロポーズの答えを一年引っ張って最後に無理ですというのに等しいね。そんな経験ちょっと辛い。