90を超えても知的に生きる
外山滋比古90歳を超えてこんな本を書いている(『知的生活習慣』ちくま新書2015)一体全体どんな健康な精神と肉体を持った人なのだろうか?学生の頃読んだ『知的創造のヒント』は40万部近く売れたらしい。その頃からこの人みたいに脳みそを鍛えようと思ってそこに書いてあることを一生懸命真似たけれどまあその足元にも及ばない。そしてそれから30年たってこの人は未だに膨大な着想メモを書き続け、5つの勉強会を続けているという。恐れ入った。
外山滋比古90歳を超えてこんな本を書いている(『知的生活習慣』ちくま新書2015)一体全体どんな健康な精神と肉体を持った人なのだろうか?学生の頃読んだ『知的創造のヒント』は40万部近く売れたらしい。その頃からこの人みたいに脳みそを鍛えようと思ってそこに書いてあることを一生懸命真似たけれどまあその足元にも及ばない。そしてそれから30年たってこの人は未だに膨大な着想メモを書き続け、5つの勉強会を続けているという。恐れ入った。
和田秀樹『感情的にならない本-不機嫌な人は幼稚に見える』新潮社2013をつい丸善で買って30分で読んだ。というのもいつも感情的になる人を見て幼稚だなあと思っていたからである。しかし読みながら、かく言う自分も論文の梗概とか読みながら学生相手に感情的になっている。ああ幼稚に見えているのだろうと反省しきり。また本書には次のようなことも記されている。Should 思考はグレーゾーンを認めず、グレーゾーンを認めない人はつまり原理主義者であり、そう原理主義者がいるとどうも周りの感情を悪化させる。しかし人のことばかりは言えない。このshould思考は別の言い方をすると曖昧さ耐性が低い状態をいうのだが、私も酒を飲んで感情的になったりするとこの曖昧さ耐性が0になり白か黒かはっきりさせるようになり、対人関係においてもあいつはいいとか悪いとかダメだとか言うようになる。
感情的になったらどうするかこの本では「放っておく」そうすると「忘れる」だそうだ。そんなことできるだろうか?できない場合は「動く」こと。なるほど。そして考えても始まらないことは考えない。はいそうしましょう。
国立建築近代資料館に菊竹清訓アーカイブを見に行った。今日はA0翻訳会の予定だったがメンバーの一人天内君がインフルエンザにかかったために(おかげで)翻訳会は中止となりこうして菊竹展に来られることになった。
菊竹清訓は僕の中では作った建築もさる事ながら、建築の方法論を真面目に模索した日本で最初の建築家として輝いている。菊竹氏自ら言うように建築とは方法が存在しない工学でありそれはとても珍しいことである。それゆえ多くの人がその方法を確立しようとチャレンジしては失敗してきた(かくいう私の『建築の規則』もその一つである)。建築の方法論とは他の工学のそれのようにリジッドなものではなく、もっと緩いものである。とはいえそこにある種の原理があると僕は思い『建築の規則』を書いた。その時そのての方法論を古今東西有史以来調べた挙句に菊竹氏の閃きに出会ったわけである。そういう意味で建築の方法論を記した他の建築家として磯崎新と篠原一男は日本近代建築史において僕が最も重要と思う建築家である。
菊竹展では50ページほどのカタログがある。売っているのかと思っていくらか聞いたら無料だった。今時こんな立派なものを無料でくれるなんて凄いとは思うが、その必要はないようにも感じる。売ったらいいと思う。その中に山名先生の文章がのっておりアーカイブの重要性が謳われている。まったくである。噂によると建築家藤井 博巳の図面はすでにポンピドゥーが買い上げているとか、、、、文化庁頑張れ。
東工大の篠野先生の最終講義を聞きにすずかけ台にやってきた。篠野さんの部屋には以前一度拙著『建築の規則』ゼミをさせていただきに伺ったことがある。このキャンパスは山あり谷ありの中にあるのでアップダウンが激しい。3時の開始に遅れるかと思ったがぎりぎり滑り込む。講義タイトルが振るっている。「我が悲しき論文指導失敗の思い出」である。これはガルシア・マルケスの本のタイトルを文字ったものだそうで、そのペダンチックなところが篠野さんらしいし、自分の失敗談を語るというマゾヒスティックなところもまた篠野さんである。とは言えそんな自虐的なストーリーでしっかり自分を語るところがまた篠野さんである。この失敗談はしかし実は失敗談ではなく篠野さんのチャレンジの歴史と見るほうが正しい。型にはまった安全な論文を作り続ける凡庸な学者であることを捨てて、常に未開の地に新たな武器を持って突撃する勇敢な学者の勲章だと私には思える。
30年前と全く変わらぬ精悍な外観とはつらつとした喋り口に元気と勇気をもらった。彼がいなければ僕らのコルビュジエ論文は生まれなかったと確信もした。今日はとてもいい日である。
以前信大の輪読ゼミで80年代論をやったことがあった、宮沢章夫東京大学「80年代地下文化論」講義2006 白夜書房 / 原宏之バブル文化論―ポスト戦後としての1980年代 2006 慶応大学出版会などを読んで議論した。当時なぜか長野駅前の平安堂には80年代論コーナーがあり、密かにブームだった。その時の宮沢さんの本が面白く、『ニッポン戦後サブカルチャー史』NHK出版会2014を通読。サブカルチャーの始まりは56年のアメリカでありビートニク、ロックンロールそして日本に来て太陽族。サブカルチャーという言葉が日本で最初に使われたのは68年の美術手帖だそうだ。そしてその中心地は時代を追って移動。60~70年代は新宿、70~80年代は原宿、70~90年代は渋谷というのが宮沢の観察である。僕の学生時代は80年代前半だから時代は原宿だったのだろうが通学路だった渋谷によくいたかもしれない。そのころはただ賑やかな町というだけでサブカルチャーに触れていたというような意識は0。たまに原宿や麻布のレッドシューズ辺りに行くとそういうたぐいの人たちがウロウロしていたというのをよく覚えている。
宮沢さんって早稲田で教えていたときやはり先生だったので早稲田出身だと思っていたら多摩美なんだ。