ホタルイカ
夜ホタルイカhttp://www.ofda.jp/sakaushi/works/type/04commercial_facility/01/index.html#で会食。できてから12年たち入口脇のシートが取れたままになっている。加えて隣の建物がなくなって駐車場になったのでそちら側につけていた設備機器が丸見えになっている。そこまで予測して作れということか?それとももうすぐとなりも建つはずだと思えばいいことか?
メロディというオブジェクト
だいぶ前に事務所のCDプレイヤーが壊れてCDを載せるトレイが出てこなくなった。そこで事務所に結構たくさんあるCDを少しずつ家に持って帰ることにした。とはいえ家も置き場所がないので厳選して聞きたいものだけに絞り、今日は「リプレー・ドビュッシー」というタイトルで、有名なエレクトロニクス、ミュージックコンクレートなどのミュージシャンがドビュッシーの同じ曲をアレンジしたCDを持ち帰った。聞きながら思うのだが、メロディーの力は大きい。メロディーがしっかりあると、音質を変えようと、リズムを変えようと、そう簡単に音楽の全体形は変わらない。坂本龍一もピエール・ヘンリーもポルター・リックスも兄弟である。やはり調性音楽はメロディーが力を持っている。おそらくメロディが感じられないような曲になれば彼らのアレンジは強くその差異を鮮明にするだろう。メロディは造形で言えば形であり音質は素材の色や肌理となる。メロディーの力とは形の力である。どちらも耳と目に訴えるオブジェクトなのである。
鈴木理策の目
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Photo © Risaku Suzuki/ Christophe Guye Galerie.
鈴木理策の『sakura』という写真集がある。ピントがどこにあっているのか分からない満開の桜の花が揺らいで見える写真集である。それには鷲田清一の文章が載っている。曰く
「桜」という、だれもが何かを歌いたくなる、そんな〈物語〉への陳腐な誘惑をかわし〈意味〉による盛り上がりを禁じながら、どこに向かうかも分からない妖しい軌道を描く。これが妖しいのは、なんらかの意味に寄りかかってみることの軽さを一方でつきつけながら、その軽さがそれでも匿しもっている「見る」ことの野性を、たっぷり過ぎるほど厚く撮すからだ。
つまりここに写っているものは桜なのか花なのかピンク色なのか模様なのかただのぼやけなのかもはやそれが何かという意味性を問題としていない。目に見えてきたもの、いたもののみを掬い取っているということを鷲田は言いたいわけであり、僕も同感である。これはモノをゲシュタルトとしてその全体性を見ていたモダニズム的な視線とは明らかに異なる。ものを全体性でみるスタンスはそのものの意味性に拘っている。しかし人間の目は常にモノの全体性などを見ているのではなく、目に入ってくるものとはおおむね断片なのである。その自然な視覚の状態が現代の視線であり、鈴木の目なのだと思う。
社会的共通資本
宇沢弘文の『社会的共通資本』岩波新書2000では経済、文化がバランスよく発展するために社会が共有すべき資産を「社会的共通資本」と呼ぶ。それらは農村、都市、教育、医療、金融、環境であり、これらを経済史の中に位置づけている。そうすると何が見えてくるか、現在のネオリベラリズムの中ではすべての分野で儲かるとことが最優先にされるがためにそれらの本来のあるべき姿を逸脱するものあるいはそれ自体の衰退を招くものが出てくるわけでわる。典型的なのは農村、教育、そして都市、医療、環境も同様である。著者に言われるまでもなく、これらの社会的資産は無くなっていいものはひとつもない。世界は冷静にこうした問題を直視しないといけない。
何者
早稲田大学の現役学生小説家朝井リョウという名前をどこかで知って一冊読んでみた。『何者』というタイトルの直木賞受賞作、仲良し5人の就活物語である。最初のうちはお互いが協力したり、励まし合ったりしているのだが、終盤お互いの欠点を露骨に非難し合う結末となる。その批難のかなりの部分はツィッターで呟いていることへ向けられる。主人公はツィッターに二つのアカウントを持つ。周りからは本人だとは気づかれないと思っていた「NANIMONO」というアカウントがメルアドからバレてしまい、そこに好きに書いていたことが最後に徹底的に非難される。
「あんたはさ、自分のこと観察者だと思ってんだよ。そうしてればいつか、今の自分じゃない何かになれるって思ってんでしょ?」「あんたは、いつか誰かに生まれ変われると思ってる」「いい加減気づこうよ。私たちは何者かになんてなれない」
僕の身の回りでもツィッターで傷つく人は少なくない。SNSが普及すればするほど、SNSワールドの言葉に敏感になるのは当然である。僕らの世代が大して気にしないことでも今時の大学生はとてもデリケートである。彼らにとって現実の世界と、SNSの世界は併存しており、彼らはそのどちらの世界の中でも生きていかなければならない。そういう生き方は恐らくそう簡単に消えることもない。
Time Flies
去年は出られなかった大学の新年会(正確に言うと理科大工学部の新年会)に出席。理事長が挨拶でinnovation, entrepreneurship, quaity of life この三つがキーワードだと述べておられた。新年会の後丸善に行って新刊を物色。去年の今頃はロベルトたちと桂を見に行ってたことを思い指す。光陰矢の如しである。Time flies.
いつになったら終わるのか?終わらないのが表現というものの宿命なのか?
今日は朝から原稿と睨めっこ。やっと昨日一つ短い原稿を送ったのでまた長い原稿とにらめっこ。図版を加える、文章を足す、引用を足す、図版番号を振りなおす、文献表を刷新する。とりあえずここ1ヶ月分くらいの修正と付加した原稿をプリントアウト。A4表裏で100枚。そして再度読み直す。読むそばから赤が入る。半年こんな調子でずっとやっている。翻訳も平行していやっているが、こちらも何度目かの読み合わせしても絶対赤は入る。そうやって2年半。翻訳やっているとつくづく思うのだがやろうと思えば一生やれる=かかる(もちろん能力がないからなのだが)。こういう原稿もやろうと思えば一生終わらない。八束はじめさんの何かの本のあとがきに出版されたそばから直したくなると書いてあった。八束さんにしてそうなのだからいわんや私ごときおやである。スケッチも描いたそばから描き直したくなるのであり、いつになったら一回で書ける(描ける)ようになるのだろうかと思いつつもう55である。