アルゴリズミックアーキテクチャ
夜の製図に竹中工務店の帽田さんと萩原さが教えてに来ている。彼らにアルゴリズミックに建築を考えるか?というような話をしたのだが、答えは全くそういう作り方をしないと言う。竹中っぽくないか。
夜の製図に竹中工務店の帽田さんと萩原さが教えてに来ている。彼らにアルゴリズミックに建築を考えるか?というような話をしたのだが、答えは全くそういう作り方をしないと言う。竹中っぽくないか。
新自由主義の問題を考えているとどうしても経済の問題になりそれを考えていると世界が経済システムで動いたのはいつからなのかという問を生み、その結果経済システム以前のシステムは何かという疑問となりそして「帝国」にたどり着いた。たどり着いたと言ってもそれは柄谷行人の『世界史の構造』が教えてくれたことである。その柄谷が中国でその内容を講義して帰国後講義録をまとめる形で出版されたのが『帝国の構造』青土社2014である。『世界史の構造』の帝国部分がさらに入念に書かれている。帝国と帝国主義の差が明快になり帝国の可能性がぼんやりとだが分かった気がする。帝国とは常に他国を制覇してその場所を自国化したわけではない、忠誠を誓わせてその見返りに彼らを保護し、そして彼らの文化は許容する場合もあったのである。要は自治を認めたのである。それ故に帝国は巨大になれた。さてでは建築はそういう帝国でどう扱われたのだろうか?自治が認められたとなると帝国の中の属国では帝国の建築様式を受け入れたかどうかはわからない。ローマはあちこちにローマ様式を撒き散らしたなんて思っていたけれど、話はそう簡単ではないようだ。
ゲストクリティークの比嘉さんによるショートレクチャーが面白かった。後半課題の図書館のために「武蔵野プレース」の話をしていただいた。公共性をテーマとしていかにすべての層の市民を来訪させるかを考えた。その結果人々を包み込むことを大きなコンセプトとしたそうだ。形だけではなく、空気や音で人を包むということも重視したというのが面白い。
曲線を徹底して使用してスパンごとに曲線や曲面で囲まれた小さな空間が縦にも横にも繋がっている。小さく分けながら遠くまで見えるという、二つの相反する空間の性質を合体しているところが絶妙である。
公園もデザインしている。円形の原っぱを置いてその周りにアンパンのようなベンチが円形に沿って置かれている。そこに座るとうっすらと共同性が生まれてくるという。
比嘉さんの話は学生向きにわかりやすいのだが、実はかなり深い。かなりコンセプチャルである。にもかかわらず、おっしゃっていることのほとんどすべてに共感した。面白いなあ。
鹿島デザインからイアーブックを頂いた。見開き2ページに2014年の傑作が載せてある。装丁が小ぶりでいい。20センチ角で全30ページ弱、作品数も12しかない。本当はもっと載せたい作品がゴロゴロあるのに載せない奥ゆかしさがよろしい。どこかのアトリエ事務所のワークシートのようである。その上設計本部長のご挨拶はコピーが挟み込まれているという簡素さ。
毎度月曜日はハードな一日であり、それを終えて常磐線もしっかり眠りこけ、四ツ谷駅から家路を急ぐ三栄通り。ここには美味しそうな店が軒を連ねる。空腹を抱え誘惑を振り切る。ここタン焼き忍は知る人ぞ知る連日長蛇の列ができる老舗。分厚い牛タンが食べられる。いつもは店の前に並びの客がいっぱいいるので気付かなかったがこの看板牛の形をしている。んだ字もなかなかいい。
タイラー・コーエン若田部昌澄、池村千秋訳『大格差-機械の知能は仕事と所得をどう変えるか』NTT出版(2013)2014のタイトルの「大格差」に釣られて思わず読んだ。アメリカの経済論壇には三つの説があるという。それらは1)景気後退による「長期停滞」、2)イノベーションなどの枯渇による「大停滞」、3)イノベーションの発達による「大失業」である。著者は前著『大停滞』では2)のイノベーション枯渇の立場をとっていたのが、本書では3)の立場に鞍替えして技術の発達が人の仕事を奪うという立場をとっている。
その中で我々にとっては教育の話が面白い。コンピューターイノベーションによって既に始まっているオンライン教育は今後さらに加速し(どこの大学でも現在多かれ少なかれやっていると思うが)オンラインで授業が完結する教授不在の授業もすでにアメリカにはあるのだと言う。ヴァージニア工科大学ではショッピングモールの一部にコンピューターを数百台置き、24時間学生はそこで授業が受けられるようになっていると言う。
さてそうなると大学教授は不要かと言うとそうでもなくて、学生たちを鼓舞し、メンテナンスしていくコーチのような存在になるのだという。さらにアメリカの優秀な大学の教授たちは単に教えるだけではなく定期的にホームパーティーを開いて学生を招くことが期待されているのだともいう。もはや質の高い授業はオンラインに任せろと言わんばかりである。
例えば経済学で言えばヴァーチャルな世界の中に実社会を作りその中で実際の投資などを行いながら経済を学ぶということが行われようとしているらしい。なるほどこれは建築でも使えるではないか、ヴァーチャルな世界のゼネコンに設計図を提出して、実際に1年かけて建物を作りそれを監理するというクラスができるのも時間の問題かもしれない。あれだけよくできたゲームソフトができる時代である。彼ら天才ゲームプログラマーにビルディング監理ゲームを作ってもらえばいいわけである。もし仮にどこかの大学の建築学科が総力をあげてそんなソフトを天才プログラマーと共同で作ったとしたら、それは破格の値段で売れるはずである。そうするとそこに競争が起こり、さらにとんでもないソフトが作られる可能性がある。そしてこんな授業(?)はかなり面白いはずである。
しかし著者はそれを邪魔する可能性として大学の認証機関の存在をあげている。もしそういうことが起こると大学の存立基盤が崩れ、大学の存在自体が怪しくなる。全てがヴァーチャル大学となったとき、認証機関は誰からも発注されなくなる。よって彼らは旧態依然とした大学をそう簡単になくすことはできないというのが著者の結論。
というわけで私の仕事ももう少しありそうである。