探す本が見つからない
月曜日は授業とゼミが圧縮されている。週の初めが一番ぎっしり詰まっている。「さあ行くぞ」と言う気持ちで始めるのだが、終わるとさすがにへとへとである。そんな霞んだ頭でとある本を探す。本棚の整理が悪いのと、事務所と大学と自宅に本が分散しているので探す本が見つからない。これはかなり根本的問題なのだが解決できない。建築の実用本は事務所に、建築の観念的な本は大学に、人文系は自宅にと思うのだが、なかなかそううまく分類できていない。どうしたもんだろう??
月曜日は授業とゼミが圧縮されている。週の初めが一番ぎっしり詰まっている。「さあ行くぞ」と言う気持ちで始めるのだが、終わるとさすがにへとへとである。そんな霞んだ頭でとある本を探す。本棚の整理が悪いのと、事務所と大学と自宅に本が分散しているので探す本が見つからない。これはかなり根本的問題なのだが解決できない。建築の実用本は事務所に、建築の観念的な本は大学に、人文系は自宅にと思うのだが、なかなかそううまく分類できていない。どうしたもんだろう??
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鷲田清一『パラレルな知性』小学館2013は専門的知性と市民的知性の乖離を再接続させる方途を模索する。その中で著者は専門的知性の変遷を語る。専門的知はその昔、社会から一歩離れた中立的な知として社会のレフェリーを務めていた。しかし現在では大学の研究者は研究資金を競争的に国や企業から獲得してこなくてはならない。資金は既にイデオロギー化されたものとなっておりそうしたマネーで行う研究は社会から一歩離れた中立的な物ではない。大学の専門家はもはやレフェリーではなくプレイヤーの一人なのだという。
確かに建築で考えてみてもその昔大学にいた建築家と言えば丹下健三、吉阪隆正、吉村順三、清家清などなど、だれもが社会に一言言える人たちであった。つまりはレフェリーだったのだ。ところが現在の大学にいる教員の多くはプレイヤーである。レフェリーたらんとする人もいるかもしれないが、そういう態度がしっくりくる人をあまり見かけない。そして著者が言うようにそれは大学全般の問題なのである。国家があるいは社会が大学をレフェリー集団ではなく、即社会の役に立つプレイヤー集団に育てようとしているのである。
翻訳勉強会。翻訳書の中に次のようなことが書かれている。「空間」の価値が否定され「場」の多様性が金を生み出す時代に移行し、富めるものと貧しいものがきわどく同居する場に金が流れる。
最近読んでいる本に似たようなことが書かれていた。若手気鋭の社会学者古市憲寿+國分功一郎による『社会の抜け道』小学館2013では消費について二人が比較的異なる視点を持つ。そして実際に多くのショッピングモールを訪れ意見する。ショッピングモールには老いも若きも裕福な者も貧しいものもごった煮のように集まって時間を費やす。その多様性を東浩紀など公共性と言って養護する。そして中国ではとんでもない規模のモールができそこに学校からスポーツ施設からアミューズメントからなんでもあるという。安いものから超高級品までが共存する。果たしてこのごった煮を本当に公共性と呼ぶのだろうか?ノー天気に楽しそうな空間だと勝手に想像するがそれを公共と呼ぶ気にはなれない。
●東工大のレビュー
●理科大のレビュー
朝一でリーテム東京工場に行って打ち合わせ。午後東工大に行って大学院製図のゲストジュリー。出題は塚本さんとベルギーの建築家。課題はヴェンチューリのcomplexity and contradictionの中の最終章。The obligation towards the difficult wholeをテーマとしベンチューリの住宅を日本のコンテクストの中で再構成しようというもの。びっくりしたのは学生の3分の2が留学生。完璧な英語のプレゼンと英語のクリティークである。スチュワート先生、塚本さん、ゲストで西沢立衛さんと僕がクリティーク。2週間の課題と聞いたがさすが院生皆思慮に富んでいる。途中だったが5時に中座し理科大へ。神楽坂で3年生の製図の講評。坂牛スタジオ今回は皆優秀で、突出したのが無いのが淋しいが、平均レベルの高い作品が並んだ。10時までみっちりクリティーク。今日は講評会漬けだが楽しかった。
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夕刻から日立設計でトーク会。日立設計は日立グループの設計事務所で300人弱の設計事務所。たまさか私の信大時代の研究室出身者や理科大のOBなどがいたので招かれた。建築の素材について話して欲しいとの要望。質料と形式について本を書いたぐらいだからこういう要望は多いのだが、さすがに素材だけで1時間話すことは難しい。なので今日の演題は建築のエイドス(概念)・モルフェー(形)・ヒューレ(素材)である。社長さんも聴くと言うのでシンプルにお話しした。このところトークと言うと外国ばかりなので久しぶりの日本語のトークで言いたいことがすっきり言えて気持ちが良かった。
曽野綾子『人間にとって成熟とは何か』玄冬舎2013が朝日の書評に載っていたので読んでみた。書評は少々辛口だったが、僕はなかなか共感するところが多かった。特にそうだったのは彼女の中庸な思想である。目次からそんな言葉を拾い出してみる。
「正しいことだけをして生きることはできない」
「いいだけの人生もない悪いだけの人生もない」
「いいばかりの人もいなければ絵に描いたような悪人もいない」
「人生には悪を選んで後悔する面白さもある」
この最後の標題に書かれていることは彼女がニュージーランドに行った後に彼の地が清浄過ぎて悪のにおいがしないところがつまらないと感じて言った言葉である。これは僕の実感でもある。
曽野綾子も僕も原理主義者の真逆である。世界は矛盾に満ちておかしなことばかりであることを受け入れようとしている。こんな姿勢は建築においても見受けられる。矛盾と複雑さを容認したのはベンチューリだが、日建設計でも僕がいたころ原理主義の部長のSさんが図面を見ながら「おかしいだろう」と部下を叱りつけている上から専務のSさんが「世の中をおかしいことは沢山あるんだよS君」と言っていたのを今でも鮮明に思いだす。二人の性格の差は作るものにも如実に表れていた。
曽野綾子によれば人間においては矛盾を容認できる度量が成熟だが矛盾を容認する建築は果たして成熟した建築か?
信大時代に小諸市の街づくりの検討をしてその中核施設としての商工会議所会館の基本設計を行った。実施設計は商工会議所に所属している甘利設計事務所が行い、今日竣工式を迎えた。基本設計とは構造や材料がだいぶ変わってしまったけれど、坪80万を切る工事費でここまで作っていただいたので感謝している。
午前中は朝から神事を行い、昼前に神事とは別に竣工式が行われ感謝状をいただいた。午後は小諸商工会議所100周年記念式典が行われ、夕方からその懇親会。地元選出の国会議員が5名、市長、知事代理、などなどなんと250名参列の大パーティーが行われた。
「すごいですね」と臨席の市議会議長に言うと、「こうやって皆で元気をだすのですよ」と言っていた。なるほどお祭りみたいなものなのか?
もと国交大臣も務めたという参議院議員の話では、現在国交省には地方都市リノベーションという補助事業があり、地方都市のコンパクトシティ化に補助がでるとのこと。これはある一定のゾーンの中に交通、行政、文化、経済の施設を集約する計画が対象とのこと。小諸では駅の近くに、病院、市役所、図書館、コミュニティ施設、公園、そしてこの郵便局をテナントに持つ商工会議所会館がその補助対象に選択された。全国で最初の採択だそうだ。さてこの計画が今後コンパクトシティとしてどこまで実効性を持つのか見守りたい。
夕方久しぶりにあさまに乗って小諸へ向かう。車中読みかけの鈴木弘輝『つながりを探る社会学』NTT出版2013を読む。人のつながりを生むコミュニケーションとは何か。そしてそのコミュニケーションによって喜びを生むとはどういうことかを探求している。その中で紹介されている平野敬一郎の「分人論」という概念が面白い。これは「個人」という概念に対立させたもので、個人とは個の一貫したアイデンティティを保つものであるのに対し、分人とはアイデンティティの一貫性を意識することなく、状況に応じて発露する自分を否定しないと言う立場である。著者はそうしたあり方がコミュニーケーションを豊かにすると指摘。分人論はいい加減と批判されそうな考えにも見えるが僕はアイデンティティと言うものをあまり信じていないので賛同する。夜小諸で商工会議所の方とお会いして夕食。