大正を平成に読みかえる
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とある企業の創業の建物が物置同然になっていたのできれいにして企業の歴史を残そうということになった。ちょうど3年前くらいだったと思うが、信大生を連れて実測調査をして図面ができたのだがそこで頓挫した。2年ほどしてまたやろうということになり今度は理科大に移った後なので、演習として研究室でスタディをした。すると本当に作ろうということになり事務所で実施設計をして春に着工してやっと足場もとれた。今日現れたファサードを初めて見ることとなった。止まったり動いたりしながらいろいろな場所でスタディが進み、いろいろな知恵が入りこんできたというのも楽しいことである。
大正時代の建物のもともとの色を復元し、実測図に則り建物の輪郭線を忠実に復元し、でも中の構造は全く変えた。ギャラリーにするので開口部もなくした。これはクライアントとかなり議論した末の結論である。大正時代をそのまま復元するのではなく、大正を平成に読み替えて継承しようというのがコンセンサスである。
限界建築にそろそろ飽きるか?
鶴見俊輔は芸術を純粋芸術、大衆芸術、そして限界芸術という3つに分類した(鶴見俊輔『限界芸術論』ちくま学芸文庫1999)彼がこの概念を最初に提唱したのは1956年なのだが、この概念は未だに有効だと本書を読みながら思うのである。
純粋芸術とは専門的な芸術家が専門的な享受者を対象に創るもの。大衆芸術とはやはり専門的な芸術家が創るものの、資本が制作の決定権を多く持ち俗悪と言われようと大衆に広く享受されるもの。そして限界芸術とは「くらしをひとつの領土とみて・・・くらしとも見え芸術とも見えるへりの部分」にある芸術と説明される。限界とはだからここではmarginalという意味である。例えば子供の落書きを想像してみてもいいだろう。
限界芸術がすべての芸術の根源であろうことは容易に想像がつく。そしてそこからの発展の終着点が純粋芸術であるものの、その純粋芸術が限界芸術のふりをしてみせているのが現代芸術と見えなくもない。
さて鶴見の概念を建築に置き換えてみるとどうなるだろうか?多くのThe建築家は純粋建築を創っている。そして多くの資本主義建築家(という定義はなんだかあいまいだが)は大衆建築を創っている。そして、では限界建築は? 建築家なしの建築なんていうものはこれに当たるわけで、ルドフスキーはこのことにいち早く気付いたのである。しかし昨今は現代芸術同様プロの建築家が生活のへりに建築を創ろうとしているようにもみえつつ、そんな時代にあきあきして純粋建築に目覚める若い人もいるのである
美しく使っていただき感謝
久しぶりに富士市のするが幼稚園に伺う。園長先生を囲み文教施設という雑誌の座談会を行った。この雑誌は竣工後月日をおいて、どう使われているかというようなことを丁寧に取材して報告するハイバー専門誌である。
竣工後8年たちその間いろいろとご相談を受けてアフターケアーをしているが、いまでも美しく使われているのがうれしかった。二階の吹き抜け廊下には手すりにプランターを入れる小さな丸いバスケットを設けたが、すべてにお花がきれいに咲いていた。感謝。
今どきの若い人はヴェルサイユなんて行かないのかね?
午前中助成金の書類の最終チェック。チェックしながら、次々と書き方の不備を発見し、加えて追加資料もいろいろと思いつく。午前中には終わると思ったのだが、結局終わったのは3時近い。助手に提出に行ってもらう。その助手と1時間後に某文化センターに行って館長さんとお会いする。助成金で呼ぼうと思っている建築家の展覧会を行いたい主旨を説明する。とても乗り気なのだが、加えてこれとこの建築家をぜひ呼びたい。ついてはその費用は出すので、彼らを入れて全体のプログラムを組みなおせないかと打診される。それは願ってもないことなのだが、呼ぶ人間が増えると全体の調整業務はどんどんしんどくなりそうでちょっと憂鬱でもある。でもなんとかその方向でよりグローバルな企画にしたいところである。
夜言葉と建築の講義、今日は「自然」の章。自然は不完全であり、芸術はそれを完全にする。それがヴェルサイユ宮殿でもある。という話をしていったことがある人手を挙げてと聞いたら0だったのにはちょっとびっくりした。
Keep locality in contemporary way!!
大学から戻り自室に入り思わず笑う。部屋が紅葉している。先日中高の同窓生がFBで教えてくれた柴山桂太『静かなる大恐慌』集英社新書2012を読む。世界は現在1930年の大恐慌と同じ状態ある。あの当時のグローバリズムが生み出したバブル崩壊が恐慌を生みそこからの復興の保護政策が戦争を生み出した。現在同様に第二次グローバリズムが起こり、さて世界はこれに対してどのような手段を持ちうるか?ハーバードの経済学者ダニ・ロドリックは『グローバリゼーション・パラドックス』の中で国家は論理的に次の3つの選択肢から二つしか選択できないという。①グローバル化、②国家主権、③民主政治。現在の日本やアメリカのとっている態度は①+②である。この場合TPPに象徴されるように民意が反映されない場合もある。その意味で民主政治が排除される形になる。一方欧州諸国はEUを作り国家主権を抑えているので①と③を選択している。しかしそれがこの欧州経済危機を迎えた。ゆえに、著者の選択は②+③なのである。つまりグローバリズムの抑制である。しかしそれが戦前と同じく国家間のぶつかり合いを生むのは明らかで、それゆえそこで極右かするのではなく、緩やかに国家の立場を尊重しようとするのである。
この意見に僕は賛成である。今時大きな政府という向きもあろうが、小さな政府が生み出した現実を見ざるを得ない。加えて文化的に考えれば、グローバル化からローカルを守るのが今の趨勢。
研究室で国際交流基金の応募のための書類をまとめていたがここでもポイントはKeep locality in contemporary way.であった。、
アリさんはすごい塗装職人
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午前中現場で塗装のアリさんと2時間、ああでもない、こうでもないと言いながら打ち放しの上にのせる色を作る。EPを混ぜながら抹茶色とこげ茶とグレーを作る。シーラーを混ぜたものを塗ったり、シーラーを塗って乾かして塗ったりして欲しい透明感を確かめる。家具が作りつけられる壁で散々試してもう塗るところがなくなったので違う階に移ってまた塗る。アリさんのすごいのは色見本帳でこの色と指定するとものの5分でその色作っちゃうところ。絵描きも真っ青である。この透明感とむらはEPを塗ってからスポンジで叩くことで生まれる。その昔連窓の家#1を作った時にコンクリート打ち放しの外壁を白粉塗ったように仕上げたいと所長と相談していたら彼がコンクリート補修屋さんを連れてきた。すると補修屋さんはスポンジで白い塗料を叩き始めた。それ以来、外壁でも内壁でもこのスポンジたたきをよくスペックする。さすがのアリさんもこんなやり方はしたことがないと言っていたがあっという間に自分のものにしているところがお見事である。