キネステーゼとアクターネットワーク
アニェス・ロカモラ&アネケ・スメリク編、蘆田裕史監訳『ファッションと哲学』フィルム・アート社(2016)2018は近代の哲学者16人理論でファッションを読みとこうとする論考のアンソロジーである。マルクス、フロイト、ベンヤミン、メルロ=ポンティ、バルト、ゴフマン、ドゥルーズ、フーコー、ルーマン、ボードリヤール、ブルデュー、デリダ、ラトゥール、バトラーである。ファッションを読み解ける論理は建築も読み解けるというのが僕の考えで、そうした視点で見るとメルロ=ポンティ、そしてラトゥールの理論は極めて示唆的である。前者はファッションを触覚として感得する作法を教えてくれる。中でもキネステーゼ(動く感じ)という概念で三宅一生や川久保の服を説明しているあたりは建築にとても示唆的である。彼らの服は西洋のフィットすることを第一義に考える服とは異なり、肌と服の間の隙間で体が動く感じを重視しその動きが身体と服を逆に一体化させて服を身体の補綴的なものとして存在させているという。建築は服と違いすでに身体との間に隙間を大きく持っているから条件は同じではないのだが身体と建築間にあるキネステーゼが働くことでそこに建築との相互作用が生まれ建築と身体の一体感(補綴性)を生むのではないかと思うのである。おそらくキネステーゼによって足の裏あるいは足の筋肉が建築を感じ取るのである。この理屈は建築を受容者側から考える時重要である。一方ラトゥールの理論は建築にまつわる人間、非人間のアクターが絡まりあいながら建築が成立しているという建築を外側から規定する広範な見方である。僕が建築は流れと淀みであるという時、流れは限りなくラトゥール言う所のアクターネットワークに近いものである。それは感受できるレベルの物から知覚不能のものまである。一方キネステーゼが建築と人をつなげるという考え方は淀みを構成する主要な要素なのだと思う。
虎ノ門クリニック
食道がもごもごするので配偶者の勧めもあり近所に新しく出来た赤坂虎ノ門クリニックに行った。どうせ行くなら気になるところは全てみてもらおうと欲を出して、消化器内科、耳鼻咽喉科、泌尿器科をはしご。11時に受け付けして耳鼻科で内視鏡で喉見て、泌尿器科で膀胱の検視鏡、血液検査、明日のCTスキャンの予約して、消化器内科で明日の胃カメラの予約して終わったのが1時。予約無しでここまで見てもらえるのは得した気分。町場のクリニックでもこのくらい科が豊富にあると便利である。総合力は重要。しかしだからと言って大学病院に行くと一日たっても終わらないだろうからこの規模のあまり有名になっていない町医者は貴重。
原風景
最近JIAマガジンのインタビューで建築家と話しているとその人の建築観が子供時代の現風景にあることを知り驚く。ヨコミゾさんの場合、絵本作家の父親と街を歩きその場所を具に観察することが今の地域遺伝子に繋がっている。末光さんの場合、父親と毎日のように瀬戸内海にボートで出ては釣りをしたり泳いだりした経験が開放的エコロジー建築に繋がっている。そして豊田さんは千葉の新しい街の国道の向こう側に広がるカオティックなでも情緒ある漁村風景に親しみを感じデザインを何かに委ねなければこのアンコントローラブルな空間は作れないと思い安藤事務所から一念発起してコロンビアのペーパーレススタジオに飛び込んだ。僕は?と我が身を振り返るといろいろ感ずるところはある。そしてその因子は明らかだし大きなものである。
You must be logged in to post a comment.