Taku Sakaushi

Diary

建築計画2.0は3.0を生む原動力

On December 9, 2011
by 卓 坂牛

明日の打合せ図面をチェックしていたら決まっていないことがいろいろあって一つずつ考えていたら結構時間がかかった。夕方大学に行き、輪読本西村清和『現代アートの哲学』の説明をし、1時間設計の課題を与える。今日はHOUSE SAを料理する。この複雑な構成を変化させる力は4年生には無いのでアクソメを描けというシンプルな課題を出す。九段から神楽へ移動し製図エスキス。さあ残り一週間。
昨日『一般意志2.0』の読後感を書いたら、コメントをいただいた。巷の「2.0」系の話は「平均」を作る活動だと。なるほど確かに。僕が恐れた建築計画2.0(藤村さんの言う建築家2.0ではなく)も建築を平均値へ誘うクラウドデーターベースの暗黙の力を言いたかったわけである。
しかしこの力はいかほどのものだろうか?クラウドデーターベースは建築を平均値化して都市を均質化するのだろうか?と考えるとことはそう簡単ではない。建築計画2.0が厳然としてあるならば、創造と言う行為はそこからの距離によって計られるはずである?と考え直した。
我々の事務所にKという洋書屋さんが頻繁に来る。彼は有名どころのアトリエ事務所、組織事務所、ゼネコン設計部、大学研究室を売り歩きその売れ筋をデーターベース化して我々の所に来る。そして「この本はアトリエ系で売れているから是非どうぞ」「妹島事務所でよく売れた」「誰が買った」などと言って売りこんでくる。まるで人間アマゾン、アナログクラウドである。アマゾンではたまに推薦された本も買うがKさんの誘いに乗ることはめったにない。それは自分なりにデーターベースの質を読んで距離をとっているからである。建築計画2.0という平均値ができれば、我々は必ずやその性格や確かさを値踏みし、それに基づき自らを相対化する。結果それは均質性ではなく多様性としての建築計画3.0を生み出すジャンピングボードとなるのかもしれない。

建築計画2.0

On December 8, 2011
by 卓 坂牛

東浩紀『一般意志2.0―ルソー、フロイト、グーグル』集英社2011を半分読んだ。半分しか読んでいないのでこれから書くことは彼が結論としているだろうことの予測である。あるいは彼の最初半分をもらって僕が勝手に作った結論でもいい。
2世紀前にジャンジャック・ルソーは考えた。人々の個々の意志(特殊意志)は集合するとある合意(一般意志)を形成しそれが世を推進する。そしてそのための暫定的な機関として政府が存在する。またこの一般意志を作る過程において、個々は合意を形成するためにコミュニケーションを交わす必要はない。これを受けて東は考えた。この古典的民主主義の立脚点をラディカルに解釈するならば、人々の合意である一般意志というものは議会制民主主義のような場で生成されるものではないのではないか?むしろネット上のグーグルやアマゾンで人々の嗜好がデーターベース化されて行くように形成されるべきである。そうすれば談合や密室政治のような不可解な決定メカニズムを排除したクリアな民主主義が生まれるのではないか。それを一般意志2.0と呼ぼう。
と言うのがこの本の主旨(だろう)。とりあえずこうした社会的な決定ルールを認めるか認めないかは別として、ここで言うようなことが事実として政治では定かではないが、今後様々な局面で発生することを止めることはできないと僕も思っている。
そしてこんなことは建築でもおこる。ある建築が好きか嫌いか、使いやすいか悪いか、ある場所が広いか狭いか、明るいか暗いか?例えばフェイスブックとグーグルアースのようなものが合体すれば、人々の行く先々でスマホがあなたに問いかけてくる。そしてそれに「いいね」と答えることで世界中のあらゆる場所の物理環境が評価されデーターベース化され逆にそのデーターベースがあなたをあなた好みの場所に誘うことになる。
建築基準法で定める様々な数値は殆ど意味を持たなくなるかもしれない。廊下幅が1.2とか1.6なんてナンセンスとなり得る。必要な数字はグーグルが持つようになるのである。
今までの建築計画を建築計画1.0とするならば、クラウドに蓄積されたデーターベース上に構築される建築計画は2.0なのである。我々はそれを安易に無視できるだろうか?それこそが人々の最も求める建築となるのではなかろうか?しかしそうであるからこそ、そうしたデーターの対極を求める施主は必ずやいる。しかしその時でさえも相対的な位置を計るベンチマークとして建築計画2.0は君臨する可能性がある。

巨大蜘蛛現る

On December 7, 2011
by 卓 坂牛


「気持ち悪!!」という声がコピー室から聞こえた。何事かと思ったら巨大な蜘蛛が現れたようだ。朝からアドレナリンが出る。眠気も吹き飛び大騒ぎ。蜘蛛が大嫌いな僕は見ることもできない。スタッフのT君がやっとのことで捕獲して事務所の外へ運び出す。こわごわ近寄りシャッターを押す。家の中にいる蜘蛛だからゴキブリなどを食べてくれるいい蜘蛛なのだとは思いつつそのグロテスクな体を見ていると寒気がする。そこへやってきた木島さんがこんなの阿蘇には沢山いると平然としている。スゴッ!!
栃木の現場の往復で富井雄太郎編『アーキテクチャーとクラウド』millegraph2010を読む。柄沢さんがでクラウド時代の空間体験を「概念的一望性」と「身体的局所性」が2重化されている状態と説明していた。
現代はグーグルアース、ストリートヴュー等であらかじめ行く場所の空間をヴァーチャルには一望していても、その場所にリアルに身体を置いて見ると想像を超えて様々な迂回が発生するということである。
ヴァーチャルな空間の平べったさがリアルな世界ではとてもでこぼこしていることに気づく。それは単に物理的、固定的環境だけではない。いざ行ってみるととんでもない人の量に圧倒されたり、とてつもない寒さに震えたり、鳥の大群に出会ったり、その時その場所のその人の実存的な空間が現れるものである。蜘蛛との出会いもそんなことの一つである。
クラウドが発達すればするほど人間は自らの実存をより強く意識するものである。

建築のノーテーション(記譜法)をもっと考えた方がいい

On December 7, 2011
by 卓 坂牛

卒計のエスキスをしながら彼らは自分の作りたい空間を作る新たな表現法に全く関心がないと感じた。模型と平立断という既成の表現法以外使わない。空間を創造するための新たなノーテーション(楽譜)を期待していない。
そんな不満を抱きながら帰宅後一冊の本を開ける。芸大出身者を中心とした集団ダブルネガティヴスアーキテクチャーによる『ダブルネガティヴスアーキテクチャー塵の眼、塵の建築』INAX出版2011という小さな本である。すると彼らの興味の中心にノーテーション(記譜法、楽譜)があることを知りその偶然にびっくりする。
楽譜と言うものが発明される前に人は音を奏で、字を書けるようになる前に人はしゃべる。レシピーが無くても素晴らしくおいしい料理を作れる人は沢山いるだろう。建築も同じだ。図面が無くても建物はできた。しかもいい建物が。
ノーテーションは記録のための、演奏のための、契約のための、伝達のための、道具に過ぎない。もちろんそれは創造のための小道具であったかもしれないが、創造は常に更新されていく。であるならばノーテーションも更新されなければならない。
音楽はノーテーションを更新している。武満が、ケージが、マークレーが、新たな記譜法を描いている。それに比べると建築は何時までたっても新たな記譜法を生み出せていない。何故だろうか?建築における記譜法は言語同様に多くの異業種の中での共通言語であり続けなければいけないからである。女子高校生言葉のような言語が突如契約書の一部を構成するわけにはいかないのである。
しかし建築のノーテーションも創造のツールとして考えるのであれば女子高校生言葉を使ってもかまわないのである。もっと自分にフィットした言葉を使うべきである。実施図面は現代社会の契約書であるからJISに則ったものである必要はある。しかし創造の場では違う。そこへ眼が向かないのであれば創造などできないと思った方がいい。

経験を超えたディテール

On December 5, 2011
by 卓 坂牛

RC外断熱で勾配屋根にしたときの雨樋の作り方が分からない。一日考えてしまった。同じような雨樋数十個描いたけれどこれだって言うものに行きあたらない。とりあえず今日の結論は幅50高さ100のステンレス樋。さて一晩寝るとこんなのダメだと思うだろうか?
それにしても雨樋のディテール一つにこんな悩むのはどうしてだろうか?最近ディテールを描いてないから技術的な知識が希薄になっているからなのだろうか?それともやり慣れない外断熱に挑戦しているので知っていなければいけないことを知らないからなのだろうか?そのどちらかが分からないことが問題である。
と思っていろいろな人の外断熱の屋根のディテールを見るのだがどうもそれが正しいやり方なのかどうかが分からない。もちろん工法を分解すれば原理的に正しいかどうかはおぼろげに判断がつくのだが、建築のディテールは経験値がモノを言う。自分の経験の延長に無いものはお手上げである。
平瀬君から展覧会のお知らせが来た。素敵な案内状である。来週からオゾンで行われるようである。行って見よう。

歴史を知るとは歴史から自由になるということ

On December 4, 2011
by 卓 坂牛

西谷修『世界史の臨界』岩波書店2006を読み始めた。
「世界史とは世界の歴史ではない。<世界>として歴史を語り始めることを可能にした一つの文明の運動、グローバルな現実を作り出したヨーロッパ近代のプロジェクトの名である」というのがこの本のコンセプトである。なるほどさもありなん。
六本木でアメリカのモダンアートの歴史を見ながら、僕らはこうした歴史的な展覧会をもっともだと思って見てしまうのだが、これはまさに歴史家の一つのプロジェクトだと思った方がいいhttp://ofda.jp/column/。身近な例でいえば近代建築史なんて言うものはまさにそれ以外のなにものでもない。ペブスナー、ギーディオン、バンハムたちによって作られたモダニズムを僕らは何の疑問も持たずに受け入れていたのだが、ある時それはおかしいと皆が思い始めた。そしてそれをなんとかひっくり返そうとしたのだがフランプトンである。そうやって歴史はどんどん作り変えられる。しかしこれがまた歴史の難しいところだが後から唱えられたものが必ずしも正確であるかどうかなど分からないのである。
その昔多木浩二の西洋建築史の連続レクチャーを聞きに行ってどうして多木さんは西洋建築史をやるのか(日本建築史ではなく)と質問した。すると日本には理論が無いからだと言っていた。しかし本当だろうか?確かに理論書は少ないけれど現存する史料で歴史が組み立てられないことも無いではないか。それをやらないのは日本のそれをどんなにがんばって組み立ててもそれは日本に閉塞し、グローバルなプロジェクトにはならないからだと邪推したくなる。そしてもっと言えば、結局歴史が現代を拘束するたがになっているのであれば日本の現代建築にたがをはめているのは日本の歴史ではなく西洋の歴史なのだと多木は言いたかったのかもしれない。
そして最も重要なことはそうしたたがからどうしたら自由になれるかと言うことを歴史を通して知ることである。そのためにこそ歴史はある。

ゲーリーやコールハースを真面目に批判してもしょうがない

On December 3, 2011
by 卓 坂牛

ハル・フォスター(Foster, H)著 五十嵐光二訳『デザインと犯罪』平凡社(2002 )2011 は方々に書いた論文の寄せ集めなのでタイトルが示すような内容の一連の話しではない。しかし、もちろんこのタイトルがロースを参照したものであり、様々な意味での現代デザイン批判である。
例えば現代建築家を代表してコールハースとゲーリー批判がなされる。ゲーリーの形態は輪郭と構造が乖離しているという意味で自由の女神と同じでありそれによって驚きを与えるのではなく人々を煙に巻き方向感覚を失調させる。さらに、こうした珍奇な形状は場所との関係を切断する。
確かにその通りである。でもそれがどうしたと言う気にもなる。ビルバオ行ってグッゲンハイムを見れば確かにこれがこの場所と何の関係も無いと感じる。でもだからいいと思った。コールハースも同じだ、彼のどの建物がその場所と関係性を持っているだろうか?(いやもちろん無くは無いが最近の多くモノには無い)。でもだからどうした?
彼らは普通の建築家では無い。一つの都市には余り多くは必要ないが少しは必要である視覚的アイコンを設計することを許された建築家なのである。だから形がどうあろうとこの二人に関してごちゃごちゃ言うのは野暮である。それより問題なのはこうしたアイコンがギードボーの言うところのスペクタクルになってしまっているということである。すなわち「イメージと化すまでに蓄積の度を増した資本」であると言う点である。
公共のごく一部の建物を除いて彼らの巨大な彫刻はグローバル社会の資本の渦の溜まりなのである。いや彼ら二人だけではないかもしれない。新自由主義の滓が形になっているというその事実が問題である。
昨日ニューヨーク大学で経済を学んで外資の銀行に勤めて止めて建築を学び始めた二部の学生に言われた。「ミルトン・フリードマンにノーベル賞を与えたのは世界的な大失策であると言われている」と。その通りだ。そしてその大失策の結果世界に偏在した金が形になり下手をすると称賛されるということが問題なのである。
それがどんな形であろうと知ったことではない。

林昌二逝く

On December 3, 2011
by 卓 坂牛

今朝林さんの訃報が毎日新聞だけに掲載された。朝日に載ったのは夕刊である。おそらく何か複雑な状況があったのだろう。
公の追悼の言葉は公の誌面に載せるのでここに記すのは極めて私的な独り言である。
僕は林さんの中学の後輩であり、大学の後輩であり、そして会社の部下だった。でも大学の後輩として何かつながりがあったわけではなく、会社の部下として多くの密接なつながりを持っていた他の部下以上の関係があったわけでもない。ただ中学の後輩であったことはいくつかの特別な関係を僕に与えてくれた。
林さんはよく僕ら(中学の後輩を)を食事に連れて行ってくれた。何か面白い建物ができると誘うのである。菊竹さんのメタボリックなホテルが上野にできた時もご飯に連れて行ってくれた。林さんの家に行ってお酒をごちそうになることも何度かあった。
飛行機好きの林さんはそんなときよく飛行機の開発の歴史を話始めた。そして現代の巨大旅客機ボーイングの時代で進歩が終わる。そこで飛行機の話は終わりその続きが建築界につながり日建もそんな状態だとぼやいていた。
中学(旧制)には建築家の会がある。林さんの4つ上に三輪正弘一つ上に穂積信夫、桐敷真次郎、岡田新一、二つ下に鹿島昭一、三つ下に高階秀爾、五つ下に藤木忠善、更に下の方に益子、片山と続く。とんでもない建築家山脈である。この会は何か会員がいい建物を作るとそこに集まって酒を飲んだ。僕のリーテム東京工場が芦原義信賞をいただいた時もバス一台で見学しその後宴会をしてくれた。その時ぜひ林さんに一言と思ったが、残念ながら所用で欠席だった。しかし祝電を送ってくれた。そう言う時に決して礼を欠かないのも林さんである。
僕と僕の伴侶は中学の同級生なのでそろって林さんの後輩である。そんな理由から林さんに結婚式での乾杯をしていただいた。お礼の意味でその後季節の挨拶をお送りすると、林さんは社内の人間からそういうものは受け取らないと言って返送された。数日前、家で今年の歳暮が話題となった時、もはや社員ではないのだから林さんにお歳暮を贈ろうとかみさんに言うと彼女は「それより元気なうちに会いに行こうよ」と言った。そうだよなあと思っていた矢先に今日の訃報が届いた。亡くなったのはかみさんと歳暮の話しをした日だと知った。林さんが呼んでいたんだような気がした。ああ生きているうちに会っておくべき人がまた1人逝ってしまった。なんだかとても淋しい。

コルビュジエの合理性

On December 2, 2011
by 卓 坂牛

岸本章弘『仕事を変えるオフィスのデザイン』弘文堂2011はこれからの時代の仕事の仕方とそれに応じた空間いついて書かれている。著者はコクヨの社員。コクヨはかなり前からワークプレースの提案を日本では最初に考えてきた企業である。その中に「作業に応じて選べる仕事場」という提案がある。今やITネットが仕事場の離隔を解決しているわけでこの提案自体が画期的に新しいわけではないのだが、自分の生活に照らし合わせてみればこのことはとても示唆的である。ゆっくり静かに物を考える時には家にいればいい。スタッフとじっくり話をしたり模型を作りたくなったら事務所。学生と戯れたければ大学である。自分が最も生産的な場所にいることが重要である。
しかし問題はこの本にも書いてあるし実際そう思うことも多いのだが、自分は自分の思うようには動かないのである。仕事は人との出会いであったり、本が自分の前に現れたり、その時の気分であったりする。生産性は計画的に生み出されることではないのかもしれない。そこでワーク―プレースの設計を考えるなら、それは計画的な見地からはできないことかもしれない。そこで起きるだろう偶然性を喚起する設計が望まれるのである。
などと思いながら夜博士論文の審査。コルビュジエの土着性がテーマだった。果たして近代のパイオニアであったコルを再度そのアンビバレンシーで評価することの意味は何処にあるのか?もちろん近代的な計画性を自ら破壊したということにおいて現代的なアクチュアリティがあるのだが、しかし、それは彼が本当に自らを否定したからおこったことなのだろうか?これは謎である。近代的な合理性が必然的に土着の設計をさせたのではないだろうか?つまりインドで、そしてラテンアメリカで技術が追いつかない国において合理性を追求したからこそ土着性に帰結したというストーリーは分かりやすい。審査した先生方の意見はそちらに傾いていた。コルが二面性を持っていたと言うのは僕が学生時代のトピカルな話題だったけれど実はそれは二面性では無かったのかもしれない。いやその方が分かりやすい。

建築学科の女子が元気な理由

On November 30, 2011
by 卓 坂牛

何故建築学科で女子学生が元気なのかというと理由はいくつか考えられる。草食男子が増えたから相対的に女子が肉食的に見えているから。女子はまじめなので成績も上がり就職もよくなってきているから。女子学生の比率が増え教室に女子の声が響き渡るから。どれも一理あるが、でも建築意匠的にはもっとしっかりとした理由がある。
僕は前々からモダニズムが形相(形)の革命であり、近代とは形相(形)優先の時代が美学的にセットされ、それゆえ質料(素材)がないがしろにされた時代であると考えてきた。ところが話はそれほど単純ではないことが少し分かってきた。
キャロリン・コースマイヤー(Korsmeyer, C)長野順子他訳『美学―ジェンダーの視点から』勁草書房(2004)2009は古来芸術概念の基軸である二元論がおしなべてジェンダー化されてきたことを跡付けた。
精神vs身体、形相vs質料、知性vs感覚、文化vs自然という対概念の前者が男性、後者が女性と漠然と繋がっており女性的な概念は常に芸術の評価や本質として劣るものとして位置づけられてきたと彼女は説明する。
つまり僕がモダニズムを席巻したと考えた「形相」は彼女に言わせればいくつかある男性概念の中の一つに過ぎないというわけである。だからモダニズムアートそして建築は男性概念によって単に形相重視なだけではなく加えて精神的で知的で文化的なものとなったのである。
さてそんな男性概念に文句を言った嚆矢は建築ならポストモダニズムでありアートならポップアートのころである。そうした異議申し立ては初期のころはモダニズム否定にやっきになっていたのだが世紀を跨ぐころになると女性概念に流れて行った。つまり身体的で質料重視、感覚的で自然なものを標榜し始めたわけである。それを過激に展開しているのが
フェミズムアートであり、身体・質料・感覚・自然と言った概念は未だにジェンダー化されており社会の中では女性が担うものなのである。それゆえ建築学科においても彼女たちは元気にならざるを得ないのである。
さてではそうした女性的価値観を全面的に後押しすることが妥当かと言うと僕はそう思っていない。こうした二元論は注意を要する。Aという時代の流れはちょっとしたきっかけでアンチAに流れやすいがそれが長続きしないのは近いところではポストモダニズムが実証済みである。二元論は往々にして中庸に収束するものだと僕は思う。極端な逆暴走は極端な「かわいい建築」を量産するだけである。そういう過渡的な傾向は長続きしない。男性性を破壊しながら女性性に走るのではなく中性へと世の中は流れる。と僕は思っている。

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