Taku Sakaushi

Diary

長続きしない本

On February 5, 2011
by 卓 坂牛

朝のヨガを終えて新宿へ。子供施設の設計を頼みたいという新たなクライアントにお会いし昼食をともにする。すでに多くの施設を運営されているお医者さん。老人の施設も子供の施設もこれは福祉ではなく、医者の職能としてやるべきことなのだと言う。現在工事中の塩山の施設と同様のスケジュールだから時間が無い。塩山は正式には去年の4月に認可が下りて3カ月で設計を終わらせた。しかし一昨年の夏に基本設計は終わっていたのである。今回は今から始めて2月中に役所に出す青写真が欲しいという。「ええええええええそんなこと可能なわけないでしょう!!!!!!」と喉まで出かかったが普通に頷いた。そして設計の終わりは6月半ばくらいだろう。4か月で基本と実施が終わるなんていうことは住宅だって滅多にない。でもやるしかないな。
帰宅後昨日から読んでいた新渡戸稲造著、山本博文訳『現代語訳武士道』ちくま新書2010を読む。新渡戸家は母の実家青森県三本木の開拓者。義、勇、仁、礼、信、名誉、忠、、、という倫理観は大事だと思う。でも嫌いだったわざとらしい小学校時代の道徳を思い出し半分読んで放り投げる。続いて伊藤乾『指揮者の仕事術』光文社新書2011を読む。イントロダクションにこれでもかというくらい自分の自慢話が並ぶ。自分は音楽大学には進まず一般大学で初の音楽実技を教える准教授となり、指揮のコンクールにも入選し、有名な指揮者にも教わり、ついでに自分の同級生がオームの犯人でそれを題材に本書いたら良く売れて、そういう仕事も舞い込んで、などなど。本論に入る前に気分が悪くなった。こういう品性だと出す音もひどいだろうなあと思ったら本も読む気がなくなった。明日早いので寝よう。

点点点を好きな感性とは

On February 4, 2011
by 卓 坂牛

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今朝の長野は雪である。模型を運んできたので駅から自転車には乗れない。タクシーで大学へ。研究室に荷物を置いてゼミの部屋に向かう途中で綿のように落ちてくる雪をたどりながら空を見上げる。立ち止まりその雪の行方を追う。白い点々の空間の中に体ごと放りこまれ。点々点々の中でしばし時間が止まる。額に落ちた一片の冷たさで我に返る。「ゼミに行かないと」。綿のような雪に包まれながら今自分の心の中に接触、粘着したできごとを振り返る。「ああ、これはまさに桜を愛でる感性!!」昨日読んだ佐々木健一の『日本的感性』に記されていた日本人が桜を愛でる感性そのものである。意識を集中し何かを対象化する西洋的感性ではなく、何かに包まれ身体的に感じ取る日本的感性なのである。佐々木氏はそれを触覚的と呼んだが。まさに雪が額で溶けることで包みこむ雪は実体化した。白い空のなかで夢の中のような距離感のない白い点が額の上で質量を持つものとなった。
対象が明確な中心のある西洋絵画はモネのころからどこに中心があるのだか分からい多中心な絵に変化した。モンドリアンだって、ポロックだって、そして草間弥生だってみんな多中心になった。そして草間はまさに文字通りの多中心で点点点点になったのだ。その点点点は今日見た雪とそういえば近い。いや、雪そのものかもしれない。点点点を見るとどうにも気持ち良くなる僕の感性はこの雪を愛でる感性であること分かってきた。いつも点点点が好きな自分をどうにもうまく説明できなかったのだがこれからは堂々と点点点が好きだと公言できそうである。
午前中論文発表会のリハ。少し進化したパワポ。こういうのは粘り強く先生も我慢しながらやるしかない。午後市役所で市民会館の建設検討委員会。しばらく出られなかったらすごい活発な議論が交わされる。結構なことだ。もう僕の出番ではない。研究室に戻ると某市の商工会議所の方々来研。東京から運んだ改築案の模型を説明。持ち帰り検討いただくことにする。夕方雑務。夜のアサマで東京へ。

チューリップ=コールハース VS 桜=石上純也

On February 3, 2011
by 卓 坂牛

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なんだか毎日山梨に行っている。現場も佳境に入ると毎週施主定例やってもごろごろ懸案事項がでるものだ。午後のあずさで新宿に。車中『日本的感性』を読み続ける。日本的感性の一つとして佐々木氏のオランダ経験が語られる。オランダでは桜が咲いても誰も関心を示さない。でもチューリップやバラが咲くと興味を示す。これってどういう感性?つまりオランダ(ヨーロッパ)では愛でる花を視覚的に対象化し、日本では花に包まれて身体的に感じ取るということである。これを読みながらああ!コールハースってやっぱり一輪のバラを作る人だし、石上純也は桜を作る人だなあと感じた。まあそれを日本的感性とつなげるとわざとらしい理解になるので敢えて日本と言うつもりはないのだが。夕方事務所に戻り明日の施主打ち合わせの図面と模型を見る。いろいろ注文出しているうちに今晩の電車で長野に行くのを断念。それなら模型写真も撮ることに。

言葉と感性

On February 2, 2011
by 卓 坂牛

7時に長野のマンションを出る。さすがにこの時間の長野は耳が凍りそうに寒い。駅で朝食をとり特急に乗り松本経由で甲府へ向かう。車中『現代思想のコミュニケーション的転回』を読み続ける。言語的転回を言い始めたのはローティーと書かれていたのでコミュニケーション的転回までの3つの転回を筋道立てて述べたのはやはり彼なのだろう。先日のいい加減な要約をもう少しきちんと書けばこうなるか。カントはそれまで物の存在を追求してきた哲学を転回させ、物自体ではなく人の認識側に立脚点を置き、物は仮像として取り扱った。次にソシュールは人が物を認識する上で言葉を用いることで自らの中に像を結ぶことから物自体ではなく言葉が人間世界を生み出しているとした。ではその言葉とは何かというと言葉とは規則であり規則は自分一人では成り立たないことから言葉の成立のためには自分と他人の共存在が必然となる。他人とは自己の対概念であり対概念とは双方の存在が必然である。すなわち自己を認識するとは他を認識することに他ならず、そして他を認識するとは言葉によって合意を生み出していくしか道が無い。それゆえ現在、人は自己を生み出すために他とのコミュニケーションを必然として生きていかざるを得ない。とこうなる(あまりにいい加減な要約です間違っていたら許してください)。
午前中、甲府で住宅の施主検収。時間はかかったが殆ど大きな問題もなく終了できた。一安心。今週末は撮影とオープンハウスだが、甲府の住宅じゃあまあ誰も来ないだろう。3時半のかいじで新宿へ。車中佐々木健一『日本的感性』中公新書2010を読み始める。佐々木氏はわが学兄の師匠。毎回氏の親書は拝読している。先日「感性無き言葉は不毛だが、言葉なき感性は空虚」だなどと偉そうなことを言ってしまったので、言葉の本を読んで感性の本を読み始めたというわけだ。彼は先ず感性とは何かという問いから始めこう定義する「感性とは刺激に応答する身体化された記憶の活性である」見事な定義としか言いようがない。つまり「感性がいい」とはいかに無意識の底に多彩な印象の粒を沈殿させそれを常に発酵させているかにかかっているということである。
言葉と感性を同時に考えいていくととてつもなく深いつながりが感じられる。

論文、レポート、、、

On February 1, 2011
by 卓 坂牛

朝一で主査の意匠系修論4通、副査の歴史系3通、心理系3通を受け取る。全10通の1000字要旨を精読する。悲しいことに歴史系の3通と心理系の3通の論理的で分かりやすい文章に比べるとわが研究室の意匠系4通の文章は何を言っているのか分からない。もちろんフィールド調査をして何かを明らかにする歴史系、実験をして何かを評価する心理系に比べて、何かを創造する意匠系の論文(論文付き設計)は論理性をどこかで飛び越えなければいけない。その宿命を負っているだけ大変である。しかしそこを分かりやすく言えるようにならないとレベルの高い設計を今後進めていくのは難しい。つまり社会に出れば嫌でも分かりやす説明が求めらる。その時に言葉の無い設計者は自分の持つ志の高い設計理念など説明困難になり、誰でもが分かる凡庸な言葉で説明される俗な建築を提示するしか道がなくなるのである。
9時からの学科会議後昼締切の2年生のレポートを受け取る。飯もそこそこにレポートを読む。1時に引っ越しやが見積もりにきたけれど、レポートを読み続ける。試験期間中なのに良く書いたと褒めてやりたいところだが、どうも参考文献やネットの写しのようなものが多くみられる。自分の問題意識に引きつけられているものは数えるほどだ。
2時半に某市役所の方がやってくる。プロポーザルの審査の依頼。最後の長野奉公と思いお受けしたいところだが、プロポーザルは何時でもどこでも提出側の不満が募るもの。その原因は二つある。一つはプロポーザルと言っておいてコンセプトのプロポーズを判断するのではなく単に事務所の経歴と規模を国交省の採点基準で判定すること。二つ目は応募資格のハードルが高いこと。もし業績と規模と同様施設の実績を重視するなら最初から大手事務所の指名にでもすればよい。プロポーザルにするなら先ずはアイデアを評価する仕組みにして業績の点数を下げ、応募資格のハードルを下げること。これを理解してもらえれば引き受けると返事をする(本当は出したいところだが、先方の応募条件のままならそもそも自分も提出できないからまあいいのだが)。
夕方修論、卒論の発表リハ。提出したその日のリハだからどれもこれもひどいものだ。どいつもこいつも腫れぼったい眼で。まああと一週間で人に分かるプレゼンをしてくれ。
本日帰宅を予定していたが、山のような雑務に追われてとても帰れない。明日の甲府は長野から行こう。

哲学というものはとてつもなく本質的だけどつくづくまどろっこしい

On January 31, 2011
by 卓 坂牛

現在検討中の某計画のスケッチを構造設備に送りおおよその構造と設備の考え方をまとめ図面の修正と模型の作成を指示して事務所を出る。夜長野に向かう車中高田明典『現代思想のコミュニケーション的転回』勁草書房2011を読む。哲学的転回は認識論的転回、言語的転回、解釈学的転回そして現在コミュニケーション的転回という4つ目の転回を迎えているという話。どこかで聞いたストーリーだと思って彼の前著を見てみたがそこには書いていない。一体どこだったかと思って本棚を探したが見つからない。50にもなると記憶力がどんどん低下する。そんな時このブログと言うやつは便利である。ブログに検索機能がついているのだ(ということをこの間知った)。「言語的転回」と入れて検索すると出てくるではないか。ブログに記した読書メモが引っ掛かるのである。大賀祐樹『リチャード・ローティ――リベラル・アイロニストの思想1931-2007』藤原書店2009にこの3つの転回が述べられていることが分かった。しかし本を引っ張り出して机の上に置いたまま読んでいないのでこの認識がローティー独自ものか、哲学では一般的なことなのかはよく分からない。この哲学的主軸の変遷はすごーく簡単に言えばこうなる。哲学とは物の本質(存在)に到達することが主眼だった。ところがそんなところへ到達するのはなかなか難しい。そもそもそんものがあるかどうかも分からないし、おれとおまえじゃあ頭の構造も違うし、だからみんなでどこか一点に到達するなんていうことはあり得ないだろう。なーんていう状態だから、よく話し合ってみんなでそこへ到達しようぜというようなことである。うーん哲学と言うやつはとてつもなく本質的だと思いつつ、どうにもまどろっこしい話でもある。

社会学の方法論で建築を分析する可能性

On January 31, 2011
by 卓 坂牛

稲葉振一郎の『社会学入門』2009を読み返してみると、社会科学とは政策科学であると書かれている。その意味は経済学なら経済発展に、社会学なら社会問題解決に、つまり政策上必要な学問ということである。
では建築に関わる学問は何に寄与するのだろうか?構造設備は社会科学同様に政策科学に近い。構造基準だとかエコ基準だとかは国策なのだから。しかるに計画、歴史、意匠などはどうだろうか?計画は使用者の使い勝手に寄与するものであり、歴史は過去の解明である。では意匠とは何か?ちょっと前まで意匠論とは寄与する何かが無い学問でよいと思っていた。
谷川渥さんが美学と言う学問はその学問によって誰かを喜ばせたり、誰かに貢献するものではない。と言っていたのを聞いて意匠論もそれでよいと思っていた。のだが少し方針を変えて、もう少し何かの役に立ってもいいと思い始めた。
そこで社会学を参考にすべく、稲葉さんの本を振り返り、古典と言われるジンメル(Simmel, G)清水幾太郎訳『社会学の根本問題』岩波文庫(1917)1979を読んでみた。薄い本で読みやすい。その中に社会学が社会を対象化する時の二つのポイントがある。一つは社会とは内容と形式に区別できること、ふたつめは社会とは個人間の相互作用のこと。
この二つのポイントはほぼ1世紀後に書かれた稲葉さんの本にしっかり受け継がれている。曰く社会学とは、社会の複数の現象間の因果関係を説明する仮説理論を作り、それを量的調査、歴史研究、ケーススタディのいずれかを用いて立証すること。立証に際し分析対象は社会の素材(内容)であり、目的はそこから個人を集合的に社会たらしめているルール(形式)を炙り出すことだと言う。
ではこうした社会学の構成を建築の意匠に適用するとどうなるか?そのためには先ず建築や都市が生み出している何らかの「結果」が必要である。それはこの場合善悪の価値づけられた状況かもしれないし、単なる特徴程度の感覚的な属性かもしれない。例えばある建築(都市、街路)の固有の感覚的属性をアンケート調査などで言語化してもいいかもしれない。次にそうした感覚を生み出していると思われるルール(形式)を炙り出す。その結果二つの因果関係を説明する仮説理論が生み出され、最期にそれらを立証するわけである。
建築現象と社会現象は気をつけないと似てるところもあれば異なるところもあるのでそう簡単に共通の方法論で解明できるものではない。しかし考え方の骨格を作る上では参考になるところが多い。

言葉と建築

On January 29, 2011
by 卓 坂牛

午前中ヨガに行った後で六本木に倉又史朗を見に行ったら、2月2日からだった。仕方なく国立新美術館でメディア芸術祭を覗こうと思ったらこれも2月2日からである。帰ろうかと迷ったが新橋に出て白井晟一展を見たhttp://ofda.jp/column/。
カタログの巻頭には白井の残したエッセイが並んでいる。ドイツでヤスパースの教えを受けた白井の言葉は建築という狭い世界におさまるものではない。建築の奥底を語ろうとする言葉である。そんな白井の言葉は理性と感性の間を往来する。
「建築は言葉である」と大学時代に篠原一男に教わり、縁あってエイドリアン・フォーティの『言葉と建築』を翻訳した。ここでの言葉は白井のそれとは違いはるかに理性的なそれである。そして信大では徹底してこっちの「言葉」について教え込んだ。建築学科でこれだけ「言葉」を詰め込んでいるところはそうは無いと思う。しかし一方で白井の言葉をあげるまでもなく建築は感性でもある。美学においても今や感性の学という言葉が大流行である。そんなわけで4月から赴任する大学でどういう方針で教育するか、「言葉」か「感性」か?信大の連続で行ってもよいものかと少々悩んでいるところだった。
岡田憲治『言葉が足りないとサルになる』亜紀書房2010を食後に読んだ。これで考えはほぼ固まった。この本はその名の通り現代若者の言葉の貧困を訴えたものである。著者は専修大学の教授でありそこでの体験に因るところが大きい。
学生の言葉の貧困は程度の差こそあれどこでも似たようなものだろうからさほど驚かない。ただ学生の話以外に著者の挙げた言葉の必要性の事例に説得力を感じた。一つはサッカー協会がサッカー教育の一環として論理問答トレーニングを取り入れたという話。つまりサッカーとは記憶に蓄積された知覚のパターンの中で自分の行為を感覚的に決定していくだけではなく、攻撃と防御のパターンを言語化して理性的に次の行動を決めるようにしなければ上達しないという認識である。もう一つは著者自身が入会する写真グループにおいて、センスがとても良い若い女性写真家が言葉を語れないがために作品の質を上げることができないという話。どちらのも技を高めていくのは感性だけでは無理であり、言葉による整理と蓄積という行為があって始めて上達が図られると言う事例である。感性無き言葉は不毛だが、言葉なき感性は空虚だと言うことである。

最期に聴く楽曲

On January 28, 2011
by 卓 坂牛

事務所で打ち合わせ。作業。夕方SETENV入江君が来所。来年の研究室ホームページ作成の打ち合わせ。その後彼と一緒にMDRの新年会に顔を出す。光岡君、柄沢君、富井君など既知の皆さまにごあいさつ。毎年ご案内いただくが近所なのに(というか、だから)新年会に来たのは初めて。すごい料理とお酒にびっくり。今日はまだ仕事があるのでお茶で歓談。お暇しようとしたら、星野君、有山君、松原さん、松田さんなどなど知り合いが続々やってくる。玄関では鈴木明さんに遭遇。事務所に戻り打ち合わせ。帰宅後先日知り合いが送ってくれた米沢慧『自然死への道』朝日新書2011を通読。雑誌『選択』に3年半連載した死を見つめるエッセイをそのまま時系列に載せている。「2010年いのちのステージが変わった」と彼は言う。脳死問題、体外受精問題など、命の取り扱れ方が変わったということである。まだ実感は無いが確かにそうかもしれない。
そんなエッセイの中で著者がホスピスで問われた質問が印象的である。死ぬ時に聞く音楽は何がふさわしいかという質問である。質問者はバッハの「G線上のアリア」ヘンデルの「アレグロ・ジョコーソ」、パッフェルベルの「カノン」を挙げたそうだ。著者はそれにうまく答えられなかったという。僕ももちろんそんな問いに答えられるとは思えない。あなたの死にふさわしい曲はあっても「死」にふさわしい曲などないからである。ということはそんな曲は私にはわかるはずもない。
僕ならきっと最も若い時の最も記憶が凝縮された曲を選ぶであろう。コレルリのヴァイオリンソナタあたりがいいかもしれない。

どうやったら物を減らせるか

On January 28, 2011
by 卓 坂牛

先日宇野求さんが僕は極力もの持たない主義と言っていた。持たないでデジタル機器の中に詰め込むというわけだ。渡辺真理さんが法政ではipadとkindleは大学で買ってくれると言っていた。大学は、もし先生たちが資料をデジタル化して所持してくれればこんな嬉しいことは無いはずだ。施設面積を恐らく3分の1くらい減らせるだろうから。運営費用をぐーんと下げられ、もう文科省にへこへこしなくて済む。
オフィスはだいぶ前から自分の席を作らないという考え方が主流である。自分の席とはイコールごみ溜めだからだ。自席が無ければ人は使わない資料をためこむことがないし、しょうがないからデジタル化して持ち歩かざるを得ないわけである。
先日読み始めた『SHARE-<共有>からビジネスを生み出す新戦略』には電子書籍などの話しは出てこないが無駄な消費を抑制するという意味ではこの本の主旨を体現していることである。
この本では消費抑制の方策として所有から共有を訴える。持つことが大事なのではなく使うことに意味があると言うわけだ。あれ、、その言葉、「使用から所有に」力点が移った現代建築状況に対する坂本先生の批判と同じである。しかし、所有の本質は物が所有者の本質を表す記号にもなり、その時その記号が人からの借り物であって欲しくないという欲望に関係する。
僕にも所有欲が多少ある。それは主として本である。それ以外は全くない。できればすべて借り物で安く済ませたい。着る物住む場所も全部セコハンでいいもちろん車は要らない。そして不要になったらまた再分配市場で循環させたい。しかし本だけはどうもそういう気になれないでいる。古い頭だからデジタルについていけないのかもしれないし。背表紙見ながらいろいろなことを思い出すし、ヴァールブルグじゃあないけれど本を並べ替えていろいろなことを考えたりする。そうして自分の本質が分身としてここに視覚化されているというような気にもなる。
でも僕より先輩たちがipadに熱狂しているのを見ると考えてしまう。デジタルに取り残されないようになんて考える以前に僕の書斎は既に限界にきているのだから。やはり本は電子書籍の時代なのかもしれない。そんな時代はあっという間にくるだろうなあ。後2年???
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本棚は今にゴミため化するか???

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