建築が現れるとき
僕らは毎日のようにとんでもない量の建築を目にしているはずだがほぼなんの記憶もない。建築を専門にしている自分でさえそうであれば一般の人にとっては尚更である。建築なんて路傍の石であろう。そう考えると我々がこの建築のこの場所のここが素晴らしくというようなことをことさら叫び、分析して、特に学会のようなところでは微妙なものの差に血道をあげている姿は少々滑稽とも映る。建築が極めて社会的なものであることを考えると尚更である。学術的研究というものがそういう蛸壺的要素を持つことを鼻から否定はしないがそうした自閉的要素がある分開放的な思考も必要で、それを持って学問のバランスはあるのだと思う。その意味で今から20年近く前に書かれた北田暁大の『広告の誕生』はそういう気持ちが頭をもたげてくるといつでもさらりと目を通して自らを反省する本となっている。本書は一言で言うと世の中に散乱する広告内容の意味解釈分析や広告の社会的存在分析などのメタ分析はそれはそれで意味があるとして、広告の社会性を問題にするなら、先ず問うことは広告が我々の前に自覚的に現れる契機は何かということであり、本書はその意味を近代日本というコンテクストにおいて実定的に進めた本である。言い換えると、我々が毎日見ているようで見ていない広告がどういうときに見えてくるかを分析した本なのである。さてここから私が建築において本書を反省的に読み込むこととはつまり見えていない建築がどのようなときに見えるのかを分析することが建築の社会性にとって先ずは行うべきことではなかろうか?ということであうr。
しかしそうは言えこの本がベンヤミンの注釈的本であると著者自らいうようにことの発端はベンヤミンの言葉、「モードも建築も、それが生きられている瞬間の暗闇の中に身をおいており、集団の夢の意識に属している。その意識が目覚めるのは—たとえば広告においてである」にあり、そしてその言葉が示す通り、夢の中にいる人々が覚醒する契機としてベンヤミンは広告に特権を与えているのである。その理由は本書には語られていないが、おそらく建築環境は広告とことなりあまりに「地」になっているからなのではと勝手に想像する。理由はさておき、我々はどういうときに建築を意識するのだろうか、我々プロはその気で建築に向かっているときはもちろん建築は建築で「ある」状態で現れるが、われわれでも建築に無自覚であるとき(「ない」状態)ふとしたことを契機にたとえば床の傾斜や天井の高さや素材の視蝕などのある感覚を契機に建築がそこに現れるのである。
こうした建築の現れはたとえばケビンリンチの『都市のイメージ』やあるいはもう少し広く「ゲシュタルト心理学」が類似したテーマを扱っているわけだがどちらも比較的視覚に依存した研究なのである。おそらく建築の場合視覚以外も相手にしないといけないのだろうと思うわけである。先ほど述べた床の傾斜は足の裏の触覚であり、残響など聴覚の場合もある。またさらにそこからが僕のフレームとしての建築につながることだけれど、そういう意識の覚醒はむしろ建築それ自体より建築をフレームとしてその中に現れる自然や人や物だったりするのである。そのとき逆にフレームが現れるということがあるのだろうと僕は思っている。つまり建築がある/ない問題の行く末は建築にの外部が現れることを契機にするというのが私の思いなのである。
『広告の誕生』を読むたびにここに戻ってくるのである。
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