夕食
3月17日
午前中事務所で雑務。午後A0勉強会。Geofry ScottのArchitecture of Humanism翻訳読み合わせ。2班に分かれて少しずつ進む。3ページくらいかな?夕刻タワープロジェクト室に。ofdaチームと夕食。ここにはナカジをはじめ芸大卒の人間が4人もいる。二人はofdaのメンバーであり、一人は元青木事務所、一人は芸大から慶応の藤幡正樹のところに行き現在はインタラクティブアートの研究をしている藤村君。今日は彼らのうち3人とと信大からバイトに来ている山田君、信大卒の深沢君そして僕の6人で食事。芸大の講評会には1年から4年まで通しの合同講評会というのがあるそうで、これは気合が入り先輩と勝負という意気込なのだという話を聞いた。それは面白い。信大でもやろうかしらん?
International Architecture Awards
去年の秋ごろTHE CHICAGO ATHENAEUM: Museum of Architecture and Design というところからメールが来た。内容は2007年のInternational Architecture Awards に応募してくださいというようなものだった。うーん出品料はしっかり取るし、、、と思ったがまあこういうものには出すべきだろうと思って出したら、先日congratulationsというファックスが送られてきた。まあ50くらい選ばれるので世界版学会選集のようなものだと思う(そんな価値があるのかよく分からないが)。2006年の例を見るとhttp://www.chi-athenaeum.org/intarch/2006/index.html日本からは国立新美術館や内藤さんの島根アートセンター、富弘美術館などが選ばれていた。まあ出品料は無駄にはならなかったと思おう。
帰宅のバスでクオリアを読み始めた。評判の書なのだろうが書き出しのあたりが「好かん」。内容はまだ分からないけれど、序で、ペンギンの進化論と漱石の哲学を並べて語り、次に松林屏風図や鳥獣花木図屏風を2時間見たとか毎週見たとか。テレビの特集番組のようなビジュアルイメージの展開が臭い。なんてきちんと読まずにいい加減な感想を書いてはいけないかもしれないが、だいたい最初の印象はあたるもの。
生きようとする意志
3月15日
製本した論文が60冊届いた。わーすごい量。中を見ると二ヶ所間違い発見。中表紙が入っていないのとカラーページが1ページだけ白黒になっている。時間がないのでどうしようかとコピー屋さんに聞いたら直すのにそれほど時間がかからないようなので全部持ち帰ってもらった。
打ち合わせやら雑用やら学会関係の連絡メールやらやっているうちに夕方。最終バス満席のためひとつ前に乗る。急に睡魔に襲われ横になって寝る。気がついたら横川。頭がすっきりしたので読書。保坂和志『世界を肯定する哲学』ちくま新書2001。半年くらい前に誰から聞いたのか忘れたがこの人の本をたくさん読んだ。これもそのとき買って放っておいたのだが今日鞄の中につっこんで出てきた。人間は言葉によって考えが制御されているので言葉になる前の「考え」をどうしたら掬い取ることができるかということを懇切丁寧に説明している。そう聞くと普通なのだがその説明はいろいろと「なるほど」と感ずるところが多い。たとえばリアリティのくだりはこうである。
リアリティとは何らかの事態に直面したときに「私」の中で起こっている、言語による処理能力を超えた事態という。つまりこれもこの本の大きな趣旨につながるけれど、言葉で言い表せるような事態というのは言葉という抽象性に絡めとられ「私」にとっての実感とならないということである。そこで彼にとって生きていくことの充実感とはこのリアリティの蓄積であるということになる。そしてそうした蓄積への人間の本能を「生きようとする意志」と呼ぶ。
これを一言で人間は好奇心の塊だからなあなどと言ってしまうともともこもない。この生きようとする意志のようなところをうろうろすることが大事なのだろう。少し時間をかけないとこういうことは腑に落ちないのだが。
金沢
早朝から金沢の街を歩き回る。金沢はその昔卒論を学会で発表するときに来て以来である。あれは25年以上も前で、とてつもなく時間がかかりその上梗概をどこかに無くすというドジを踏み発表したら鈴木博之先生になぜ今コルビュジェの研究をするのですか?という質問を受た。あの時は谷口さんの図書館を見て兼六園に行った記憶がある。今朝は主計(かずえ)町という風流な街を散策。兼六園を通り抜け、元の金沢美大を改装した歴史博物館を見る。そこからバスにのり21世紀美術館に行った。できてからずっと行かないでいたが、やっと行った。やっぱり良かった。これは一言では言いづらい。本当にいろいろなことがよくできていると思った。その後竪町という現代的なショッピングストリートを通り抜け香林坊を通りホテルに戻り荷物をとって学会の役員会に出席。終わり北陸線で福井を回り米原に出て新幹線で東京に戻る。北陸の遠さを実感した。
静山先生
3月11日
信州大学の教育学部の教授に私の中学時代の書の授業の先生だった方がいらっしゃる。雅号を市沢静山という。実は家内の師匠でもある。今年で退官ということで退官記念書展が信濃教育会館で行われており、午後拝見しに行った。上条信山の弟子であり、信山ばりという独特の書風の後継者である。実に味のある作品が50点近くあり久々に感じるものがあった。2年前に私がこの大学に赴任したのに一度も挨拶にいけずその非礼を詫びた。「設計の仕事もあるから大変でしょうと言われた」先生も東京でも指導していたので私と同じ行ったりきたりの生活を24年続けていた。それゆえ私の境遇もよく分かるようだった。
夕刻の電車で金沢に向かう。ホテルでメールなどしようと思ったらバッテリーを忘れていた。携帯のメールで対応。m2の中尾君から東京建築コレクションで塚本の審査員賞をもらったとのメールが入る。うれしいことである。
ちょっと気になるビジネス書
どうもビジネス書という類の本は好きではないのだがついネット広告に惑わされて買ってしまった。ダニエル・ピンク著 大前研一訳『ハイコンセプト-新しいことを考え出す人の時代』三笠書房2005という本である。これからの時代は次の6つのセンスが必要であると説いている。この辺の妙な分かりやすさがどうも怪しいのだが、1)機能だけではなくデザイン、2)議論よりは物語、3)個別よりも全体の調和、4)論理ではなく共感、5)まじめだけではなく遊び心、6)モノよりも生きがい。
生活が豊かになり、知的労働がアジアの低賃金知的階層へグローバールにアウトソーシングされ、さまざまなことがネット上で解決される現在、今までの左脳的知性はビジネス上有効ではないというのが著者の分析であり、そこで求められるのがうえの6つということである。なるほど分からないではない、しかしその手の議論はすでに終わっているという気がしないでもない。まあそんなに気をせいてもいけないか?今まさに進行しているところかもしれない。もちろん著者はこの対比の前者が不要だと説いているのではなく、前者のうえに後者が必要だと述べている。2項対立を避けて中庸を探る議論はここにもあるというところだ。
ところで今日の長野は久しぶりの雪であった。ついに入試の日に雪が降った。しかしたいした混乱も無く終わった。ほっとした。
元気
朝事務所に行くと青弓社からジャンリュックナンシーの『遠くの都市』小倉正史訳(http://www.seikyusha.co.jp/kinkan/index.html)が届いていた。この本に私は若林幹夫さんとともに解題を書いている。思えば昨年の春頃この原稿を書いていた。読み返してみるとソージャの第三空間にかなり言及し、‘both and‘の思想を軸に語っている。丁度平行して博士論文を書いていたのだが、ソージャやソージャーに影響を与えたフーコーの筆致が博論の調子に影響を与えていることを改めて感じた。
午前中近美に行き皇居を見ながらコーヒー飲んでいたら晴れてきた。今日見た作品を反芻した。どういうわけか今日は雨も手伝って気分がすぐれなかった。いくつかの作品を見ていたらますます元気がそがれていく。事務所のある人がオープンハウスに行って元気の出る家と元気がそがれる家があると言っていたがそれと同じである。元気を与えてくれる作品がないものかとうろうろしたが今日は駄目である。と思って帰りがけにミュージアムショップに寄ったら、中川幸夫が大原美術館有隣荘で行った展覧会の小さなカタログがおいてあった。思わず息を呑む美しさでこの小さなカタログを買って帰ってきた。かみさんに聞いたらこの展覧会はテレビでも放映されたそうだが、これには少し元気をいただいた。
ケージは音痴
昨日の帰り塩谷とジョンケージの「音痴」話で盛り上がった。彼女いわくミュージシャンというものは自らの作り出す、あるいは引く音を評価する。そして普通はそれが「良い悪い」というような単純な二項対立の評価基準だけではなく、10個くらいのクライテリアを持ってそれを判断できるものだが、ケージにはそれが無いということだった。あっ、それって昨日僕が町に対して言いたかったことと同じである。意味の濃淡、表裏、特別普通というような複数のクライテリアに微妙な差を感じ取る臭覚が必要だというのが僕の言いたかったことである。そうしたセンスの欠如をデリカシーが無いというのだろう。そしてデリカシーの無いケージは音を操るのではなく概念を操って音楽を作った。
そしてモダニズム音楽がそうなら、モダニズムアートのたとえば平面抽象のケネス・ノーランドなどもデリカシーが無い部類かもしれない。それを超えるコンセプトで作ってしまう。
文学ならどうなのだろうか?言葉の綾を読み分ける能力は僕にはあまり無いけれど最近の若い女流小説家の文章は水のようにさらりとしている。まあケージのようではない。綿谷りさの『蹴りたい背中』の後の第一作『夢を与える』を読む。その昔『インストール』を呼んだ時彼女はまだ高校生だったがその後、早稲田にはいり、もう卒業の年のようである。
北仲WHITEルーレットトーク
3月6日
こういう日に限ってアクシデントが起こる。朝事務所に来て打ち合わせをし、ちょっと電話と思ったら携帯が無い。自宅においてきたかと家に電話したが家にも無いという。自宅から家の間の3分くらいのところをうろうろ探しまわるが無い。家に戻り自分の目で探し回るがやはり無い。これはちょっとまずいことになった。電話より転送されるメールが見られなくなるのがさまざま仕事に支障をきたす。
今日は夕刻より横浜北仲のシンポジウムがある。http://www.yokohama.urbanlab.jp/admc/03/少しトーク内容など考えようと思っていたところなのに、、、、、さてどうしよう。出てくるのを待ってうじうじ気を揉んでいるのは精神衛生上悪い。まあ3年使ったし壊れたと思おう。意を決し、近所のSoftBankに行く。Sumusungのぺらぺらの機種を買いその足で横浜に。本日午後にいろいろ準備しようと思っていたのがここで時間を取られ行き先もおぼつかないまま電車に飛び乗る。
シンポジウムは楽しかった。本当のルーレットを会場でまわしてもらいその番号の絵をプロジェクターで映しその絵を持ってきた人が話す。回りからもちゃちゃを入れる。さらに絵の変わる間も誰かが話すという妙な取り決めを小沢剛さん、塩谷さん、僕で行った。金曜日の夕刻ということもあり、来場者は40人くらいだった?場所は北仲WHITEという古いオフィスでありとても気持ちのよい場所である。少し寒いのが難点。天井がなく床も硬いので音が反響するなど性能的には厳しいものもあるが建築がよかった。これも壊されるそうだ。惜しいところである。
小沢さんのスライドでは都市的ななすび画廊ようなものから美術館的なものまでが写され、塩谷さんのものはニューヨークの古い橋の建築への転用や新しいアーティストの街チェルシーなど、そして僕はラオスからインドから、荒木町から、映し出された。僕としては都市の意味の濃淡、裏表、特別普通などと言う局面をお見せしたかったがそれはルーレットトークこちらの意図どおりいかないところがよいわけである。みんな持ってきたスライドの半分くらいしか見せられないで終わった。まあそれでもなんかこの異様な脈絡のなさが気持ちよいという変な感じであった。レクチャーとか、シンポジウムとかいう知の伝達形式を脱構築しようというのがルーレットトークの高邁な思想である。(なんて偉そうな意図は事後的に気付いたことで小沢さんが「ルーレットやろうよ」といったのに「そうだね」と軽くのっただけだというのが実体である)。
広範は佐々木龍郎さんも登場し、彼の横浜での長い仕事をからめアーティストの住む町に話が展開した。会場から木島、城戸崎さんの発言などもありそこそこ盛り上がる。街へのかかわりにおいて重要なのは「愛」という塩谷氏のくさいせりふが結構不思議とまとめの言葉となって終了。
皆様お疲れ様でした。プロデュースしてくれた入江君、来てくれたうちの学生、他の大学の学生さん、OFDAの皆さんありがとう。
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