ちょっと疲れがたまる
朝起きれない。一週間分の疲れがどっとでてきた。その体に鞭打ち10時から事務所で打合せ。終わったら5時だった。うーん。ここまでやらないと駄目なのかと思いながらもやってしまう。心配性かもしれないがこの時期は心配なことが多すぎるので念には念を入れた打合せになる。その後日建のプロジェクト室に顔を出し打合せ。
朝起きれない。一週間分の疲れがどっとでてきた。その体に鞭打ち10時から事務所で打合せ。終わったら5時だった。うーん。ここまでやらないと駄目なのかと思いながらもやってしまう。心配性かもしれないがこの時期は心配なことが多すぎるので念には念を入れた打合せになる。その後日建のプロジェクト室に顔を出し打合せ。
今日は製図第二、2年生最後の課題の講評会。「貸しオフィス」というなんとも大学の課題っぽくない課題である。ゲストクリティークには日建の女性設計主管である中村晃子氏に来ていただいた。先ずは彼女のオフィスののレクチャーをしていただいた。18年間の在籍期間に18個くらい竣工しているようで大したものである。最新作の金刀比羅タワーは虎ノ門の30階建ての貸しオフィスである。今年の学会選集にも選ばれた立派な作品である。レクチャー後30名くらいの優秀作品を講評し例によって各クリティークそれぞれの優秀賞を選んだ。今回は前回の住宅と異なりかなりいいできである。やはりレベルが上がると嬉しいものである。帰りの新幹線の中で中村氏は2回目の製図でよくここまできたわねと感心していた。3年生になって更なるステップアップを望みたい。
今日で院生の講義が終わった。あと少しで今年度も終わる、、、、もちろん講義など大したこはないのであって、問題は卒論と修論。大学の教師になるとこの時期が一番忙しい。それはその昔奥山からよく聞いていた。そしてそれが本当であることがしみじみ分かる。長距離走や水泳のラストスパートの部分のようなもの。一見よく似ている。しかし実は違う。スポーツはとりあえずゴールすればその苦しさから解放されるのだが、実生活というのはそんな山とは関係なく次のゴールが降って湧いてきては割り込んでくるから。
話は違うのだが、今日の院の講義はtype型についてであった。僕等の思考はおよそこの型に枠どられている。平たく言えば固定観念とか既成概念というようなものである。思考だけではなく視覚もそうである。ゲシュタルトという考え方が既にそうである。人間はあるまとまりを視覚的に認識してしまうものである。リードの『イデアとイコン』において最も府に落ちた話は「人間は視界の中である良いまとまりを捉えてしまう」というひどく雑駁な謂いであった。しかしそれはどうも真実だと言う気がする。だから実は新しい造形を生むというのは簡単な操作でできるはず。この「良いまとまり」が崩れる閾値のあたりに微妙に形をずらすということなのである。所謂型にはまらないぎりぎりのところを狙うということなのである。
言うは易しだが、、、、しかしこれは結構正しいはず。
昨日の続きを帰りのバスで読んでいた。何故旧制高校が逐語訳を生む文化的基盤を作ったかという話。答えはその受験戦争にあるというものだった???本当かい?と思わないでもない。しかし確かに我々の受験の時でも、その採点の客観性を高めるために、やはり意訳には限度あったことを思い出す。旧制高校の語学力とは確かに高い。旧制高校出の親父に聞くとあれは語学学校だと言う。そして彼の語学力は兄に言わせれば私より高いという。えーーー?。親父は別に語学を生活の糧にしているのでもなけれ日常生活で使っているわけでもない。80近くまで、多分大学を出てから外国語を使う必要にせまられたことは無いと思われる。その人間をして留学して翻訳書まで出している人間より語学力があると第三者に言わせしめるというのはどういうことかと驚かざるを得ない。辞書を食っていたのかもしれない?ことほど作用に旧制高校の語学教育はすさまじいものだったのだろうと想像する。そしてその世界のエリート意識が翻訳書が一部の人間にしか理解されぬことを不思議と思わぬ土壌を生み、エリートの厳密性が逐語訳を生む土壌となったということは親父を見ているとなるほどと理解しうるものである。