大きいこと小さいこと
去年僕の研究室を修了したF君が事務所を訪れた。仕事のことで相談ごとであった。大雨の中10時頃来て1時頃帰って行った。次の打合せが1時であることをすっかり失念し、飯を食いそびれた。打合せといってもスタッフといっしょに住宅のプランを練るというもの。気付いたら8時である。余りにお腹が減ってめまいがしてきた。帰宅して夕食をとったが体にエネルギーが広がらない。
キャンパス計画をするのに芦原義信の『外部空間の設計』を探していた。ないないと思っていたら、机のすぐ脇の本棚に発見した。良かった。その後書きに、バシュラールに啓発された芦原が大きい空間と小さい空間の対比について語っている部分を発見。そして小さい空間の本質として胎内性という言葉をあげ、これが大都市の荒廃に対抗する精神性であろうと結んでいる。大きさと小ささは僕の論文の一つの骨子でもあるし、その昔からずっと考えていることであるが30年前に既に触れられていることに普遍性を感じた。
カナダの建築家突如現われる
突如事務所にカナダ人の建築家が現われた。日本人の友人といっしょなのだが、こちらは一体何が何だか分からない。友人曰く、事務所で働きたい旨メールしたとのこと。そしてそこにポートフォリオも添付したと言う。しかしまったくその記憶がない。しかしとにもかくにも本人が目の前にいて、ポートフォリオも持っていて見てくれという。カナダの大学院まで出て、カナダの事務所で三年働き日本で働きたいという。こちらは意地悪だから、日本で働きたいなら事務所は一杯あるよと教える。こちらは何故ofdaで働きたいかを聞いているのである。すると僕宛の手紙を出す。手紙はなかなか良く書けてある。しかしそう簡単にこの手の人を受け入れることは難しい。先ず日本語がまったくできない。これでは僕とコミュニケーションできても仕事はできない。デザイン力も飛びぬけてあるわけでもない。この手の人は何度か来るのだが、まあ難しい。日建設計あたりに聞いてみたらどうかとアドバイスする。午後打合せ。また長い打合せとなる。終ると10時。皆で食事をして解散。
80年代論
大学の仕事始めである。工学部長の挨拶を聞く。去年はこの会には出席しなかったので、新年挨拶を聞くのは始めてである。その昔日建で社長挨拶を聞いたことを思い出す。若い頃はこの手の挨拶を聞くのは苦手だったし、そもそも面白くないし、興味も無かったのだが、ある時期から結構いいことを言っていると思うようになった(年嵩を増して社長の言わんとすることが理解可能になったということなのだろうが)。それ以来、この手の挨拶は興味深いし身に沁みることが多い。今日の話もすっと腑に落ちる内容であった。
昨日から読み始めた原宏之『バブル文化論』慶応大学出版会2006が面白い。バブル真っ只中を生きた僕のような人間にとっては、最も身近で肌身で感じられる話である。やっと80年代も語られる時期に来た。以前にも紹介した宮沢章夫の『80年代地下文化論講義』等と共にこれからますますこの手の分析は増えていくであろう。ただ僕としてはこれに続く90年代にも分析の手を伸ばして欲しいと願うところだが。
新年もそろそろ始動
昔からそうだが、1月も3日になると、今年一年(と言えば大袈裟だが)今年度にどうけりをつけるかプレッシャーが襲いかかる。いろいろなことがうまく回転するか自分でも分からないことも多い。特に今年はいくつか先の見えにくい仕事も多く不安は多い。大学も2回目の卒業生をいかに送り出すか頭が痛い。毎晩4年や修士の学生の顔がちらちらする。更に来年度の新たな勉強テーマの開拓として装飾とヤマをどう発展させるか頭の中が錯綜する。
夕方事務所に雑務を処理しに行く。木島さんが仕事中。事務所も人数が少ないとひどく寒い。早々に切り上げ帰宅。1月のスケジュールを作り。かみさんのレクチャーのパワポを作り。そしてガウディの装飾論を読みながら就寝。
大晦日の会食
一年に一度親と兄貴家族に大晦日と元旦に会うことになっている。シンガポールとオーストラリアと日本にばらばらにすんでいる兄貴たち家族もそうしょっちゅう一同に会することは無い。いつも決まって青山の焼き鳥やで大晦日の夕食をとる。美味しかった。両親は快調のようだ。元気そうで安心した。ひざを怪我した兄貴も元気そうである。オーストラリアの大学に入った甥っ子は英語が上手になったようである。早稲田学院の本庄に入った甥っ子の弟の方は通学時間が長く大好きなサッカーはやめてしまったようだ。高校時代は今思えばやっておけば良かったと思うことは沢山ある。
飲んで食って解散。明日また河豚やで会うことを楽しみに帰宅。
忘年会
12月30日
今年最初で最後の忘年会。日工大の武田先輩。伊東事務所の東さん。竹中の萩原さん。東工大の奥山、塚本、貝島。塩尻の勝者柳沢潤。奥さんの志真さん。ofdaから木島さんと僕。渋谷で飲んで食って。2次会はアトリエワン。
今年は坂本先生自身ドイツのコンペで勝利。塚本もパリのコンペに入選。大良も沖縄で勝ち。そして柳も勝った。めでたしめでたし。しかし案の定、塩尻で最後、僕が柳に投票しなかったことを散々言われる。30分おきにその話が登場する。奥山とは卒論、修士論文の梗概の話。「つらくても書き換えたら学生のためではない」と諭される。しかしそんなレベルではないことを話す。しかし笑った笑った。一年分笑った。すっきりした。朝4時アトリエワンから木島さんとぶらぶら歩いて帰る。みな良いお年を。
装飾
午前中とある打合せ。午後帰り道、神保町で山の本と装飾の本を探す。ネットで見て欲しかった海野弘の『装飾空間論』やコルの『今日の装飾芸術』『近代の装飾事典』等等、10冊ほど購入。ルカーチの『美学』に装飾論があると井上君から聞いていたので探したが、第二巻はあるのだが第一巻は見つけられなかった。帰宅後早速読み始める。ここでも確認されるのは、装飾と言うのは具象ではないということ。古代に遡れば、旧石器は動物の文様だが、新石器は土器が発明され、幾何学模様となる。この幾何学の抽象性をヴォリンガーの理屈だけではなく解明したいところである。
建築で考えれば、結局エレヴェーションを黒くしたい欲望(白地恐怖症)イコール装飾と定義してもよいのかもしれない。別にそのパターンに意味があろうがなかろうが関係ないと考えれば、つまりディテールも装飾だし、もっと言えば材料に模様があったってそれを使う意思は装飾と考えてもよいのかもしれない。